三行経営統合の破談
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1998年9月にあさひ銀行(現・りそな銀行、埼玉りそな銀行)と東海銀行が2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意(東海あさひ銀行構想)し、2001年秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。 しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行による3行の経営統合(みずほフィナンシャルグループの設置)、続く同年10月には三井財閥系のさくら銀行、住友財閥系の住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。 こうした金融再編に取り残されたのは、拓銀破綻後は都銀下位行に甘んじた大和銀行と、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが首都圏・東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大和銀行の参加を呼び掛けた。 しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「フィナンシャルワン」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。 その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したため、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。 この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には不良債権処理による損失から公的資金注入の優先株に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と金融持株会社大和銀ホールディングスを設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は2003年5月のりそなショック発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。
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