ハラチン・ハーン家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:33 UTC 版)
ヨンシエブのイスマイルによって擁立されたダヤン・ハーンはヨンシエブのイスマイル、イブラヒムら有力首長を打倒し、モンゴリアの再統一を実現した。ダヤン・ハーンによる討伐以後、かつての「大ヨンシエブ」は分割され、ハラチン部は再び単独の部族としてダヤン・ハーンの孫のバイスハルに与えられた。バイスハルはクンドゥレン・ハーンと称して兄のアルタン・ハーンらとともに明朝へ侵攻し、隆慶和議が成立すると明朝より都督同知に任ぜられた。しかし右翼モンゴルの中でハラチン部は最も東に位置していたこともあり、隆慶和議以後もチャハル部とともに明朝への侵攻を続けていた。「クンドゥレン・ハーン」の名はバイスハルの息子バイサングル、その息子バイフンダイに受け継がれ、ハラチン部は右翼モンゴルの中でトゥメト部に次ぐ有力な部族として知られた。17世紀初頭、後金の圧迫を受けたチャハルのリンダン・ハーンはモンゴリアの統一を目指して征西を行い、これによってハラチン・ハーン家、トゥメト・ハーン家は滅亡した。しかし、ハラチン・ハーン家の属下にあった朶顔衛は滅亡を免れており、後金改め清朝の下で朶顔衛を中核に「ハラチン部」は再編成された。
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