漢文史料への登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 02:14 UTC 版)
漢文史料では、トゴン(脱歓)の名はその父マフムード(馬哈木)が亡くなった頃より現れるようになる。当時、モンゴリアではアルクタイを中心とするモンゴル(明朝の言う韃靼)、順寧王マフムード(モンゴル年代記におけるバトラ丞相)・賢義王タイピン(モンゴル年代記におけるエセク)・安楽王バト=ボラドの三人に率いられるオイラト(明朝の言う瓦剌)、明朝の永楽帝が覇権を巡って争う時代であった。一時マフムードの勢力は優勢であったものの、これを警戒した永楽帝がアルクタイに協力すると形勢は逆転し、マフムードはアルクタイの攻撃に敗れ1416年に亡くなった。 マフムードの死後、トゴンがその後を継いだものの、それまでマフムードに従属的だったタイピン・バト=ボラドの二人がオイラト内の主導権を握るようになった。マフムードを失ったオイラトは勢力を衰えさせ、アルクタイ率いるモンゴルが優勢になったが、今度はアルクタイの勢力が大きくなりすぎることを恐れた永楽帝は永楽二十〜二十一年にわたってモンゴルへの遠征を行った。これを好機と見たトゴンはアルクタイへの攻撃を始め、永楽二十一年(1423年)にはこれを敗り、その配下の人々・家畜を略奪した。永楽帝の死後、トゴンは益々アルクタイへの圧迫を強め、宣徳六年(1431年)の遠征によってアルクタイは本拠のフルンボイル地方より逐われ、ウリヤンハイ三衛に逃げ込んだ。
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