漢文と日中韓の医学書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:22 UTC 版)
中国と日本、朝鮮半島、ベトナムなどの周辺国では、近年まで(日本では大正・昭和初期まで)、知的エリート層は高度な漢文の素養を持ち、翻訳を必要とせず漢文の書籍を読むことができ、互いに筆談で会話することも可能であった。このように古典中国語は、ヨーロッパにおけるラテン語、イスラーム圏におけるアラビア語、インド圏におけるサンスクリット語同様、広範囲わたって情報の伝達を可能にし、長期間影響を与えた古典言語であったといえる。韓国の医学は中国医学の影響を受けながら、日本同様に固有の発展を遂げた。日中韓では長い歴史の中で、漢文によって多くの医学書が書かれた。時代・国によって内容には顕著な違いがあるが、相互に医学書が伝えられ、渾然一体となって発展してきた。鍼灸書『神応経』のように、ひとつの書籍が明版→日本→李朝版→和刻版→中国活字版と伝承された例もある。 日本における韓医学の記録は6世紀に遡り、遣唐使の廃止以降は、医学をはじめ多くの大陸文化が日本化された。10世紀の日本の医学書『医心方』(984年)には、中国医学書だけでなく、『百済新集方』、『新羅法師方』など朝鮮半島の医学書からの引用も数例みられ、書名・内容を知ることができる。後世の引用から、高麗時代には『済衆立効方』、『御医撮要方』などの医学書があったことがわかっているが、現存する当時の医学書は『郷薬救急方』が確認されるのみで、李朝再版本が日本の宮内庁書陵部に唯一残されている。 李氏朝鮮時代には、獣医などの関連分野を含めて200以上の医学書があったとされており、15世紀以前の医学書を集大成した『医方類聚』全266巻(1445年)、明代までの中国医学を基に症状・処方を解説した『東医宝鑑』全23巻(1661年)などが有名で、日本にも伝来している。朝鮮半島の医学書は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592・1598年)の際に日本に持ち込まれ、印刷技術も伝えられた。1592年に秀吉軍が略奪した書籍は、船数艘・数千巻ともいわれる。朝鮮半島に古い書籍が残されていないのはこのためらしい。。日本では、近代化を目指す明治期になると伝統的な医学書は不要とされ、多くが清に流出したが、その中には朝鮮の医学書・朝鮮で出版された中国の医書も含まれていた。清の宝物は、北平の故宮博物院(紫禁城)が所蔵したが、国共内戦の際に中華民国政府が所蔵品を厳選して持ち出した。そのため、清の学者たちが集めた医学書の大部分は、現在は台北の国立故宮博物院に保存されている。 江戸時代には、鎖国体制のため外国の医学書はあまり伝来しなかった。そこで『東医宝鑑』に注目した徳川吉宗はこれを復刻させ、江戸時代初の官版医書として1724年・1730年に発売された。19世紀には清に輸出され、のちには版木が輸出されて清で出版された。また、朝鮮通信使であった医官や同道した医師と日本の医師の間にも交流があり、筆談による医事問答などを集めた記録が残されている。
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