モンゴリアの統一と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 02:14 UTC 版)
一方、アルクタイに擁立されたアダイ・ハーンはアラシャー地方に逃れており、そこで明朝とオイラトという二大勢力に挟まれつつなお余命を保っていた。しかし正統1-2年(1436年-1437年)に明・オイラト双方から攻撃を受けて衰退し、正統三年(1438年)にはオイラトの攻撃によって攻め滅ぼされた。『蒙古源流』ではトゴンによるアダイ・ハーンの弑逆を詳しく記しており、トゴンとの戦いに敗れたアダイは「主のオルド(チンギス・ハーンの四大オルド、現在の八白室)」に逃げ込んだが、トゴンはその周りを三度めぐって何度も切りつけたという。これは罪作りな行いだと考えた周囲の者はトゴンを諫めたが、トゴンは諫言を聞かず自らハーンとなることを宣言したが、「主のオルド」を離れたところで天罰によって亡くなった、と記される。 アダイ・ハーンの死とともにトゴンが亡くなったのは『蒙古源流』の創作とされるが、ここではチンギス・ハーンとその子孫たるボルジギン氏を否定することがモンゴル社会では認められないということを表す逸話であると見られる。正統四年(1439年)まではトゴンによる朝貢の記録が残るが、翌正統五年(1440年)にはその子エセンが使者を派遣しており、1439-1440頃にトゴンは亡くなったと見られる。トゴンの死後、一時的に長男エセンと次男の間で争いが起こったようであるが、最終的にはエセンがトゴンの地位を受け継いで「タイシ(太師淮王とも)」と称した。
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