トルグートの前身ケレヌート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
「トルグート」の記事における「トルグートの前身ケレヌート」の解説
各種史料によると、北元時代の初期に「オイラトのケレヌートのオゲチ・ハシハ」なる人物が有力であり、チョロース部のゴーハイ太尉、バトラ丞相らと権勢を競っていたという。オゲチ・ハシハの息子がエセクで、明朝ではエセクのことを「エセクEsekü」を漢訳した「太平」という名前で呼称し、「賢義王」という王号を与えていた。 『トルグート王統記』によると、オン・ハーンの息子がアルスラン(Arslang)で、その息子がアムグラン(Amuγulang)、アムグランにはカイワン(Kayiwang)とタラダン(Taradang)という息子がいたという。この内、アムグラン(Amuγulang)もまたエセク(Esekü)と同様に「太平」を意味する単語であり、またカイワン(Kayiwang)は賢義王ken-i-wangの転訛であると見られている。このため、北元時代初期のオゲチ・ハシハ、エセク父子こそがトルグート王家の始祖であると考えられている。 北元時代初期を通じて親アリク・ブケ家派のケレヌートと親クビライ家派のチョロースは内部抗争を繰り広げており、オゲチ・ハシハはチョロースのゴーハイ太尉の擁立したエルベク・ハーン(クビライ家)を殺してクン・テムル(アリク・ブケ家)を擁立したが、ゴーハイ太尉の息子バトラ丞相によってクン・テムルとオゲチ・ハシハの二人は殺されてしまった。その後バトラ丞相が死ぬとエセクがオイラダイ・ハーン(アリク・ブケ家)を擁立したが、今度はバトラ丞相の息子トゴン太師によって殺されてしまった。エセクの後は息子のネレグが継いだが、トクトア・ブハ(クビライ家)を擁立したトゴン太師は急速に勢力を拡大して権力を強化し、チョロースの傘下に収まったケレヌートの家系は一時不明となる。
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