北元時代前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:10 UTC 版)
大元ウルスの北遷時、アスト部・ハラチン部を率いていたのはトクト太師の息子で父の地位を引き継いでいたカラジャン太師で、15世紀に入ってその地位を継承したのがアルクタイであった。アルクタイはモンゴル年代記で一貫して「アストのアルクタイ」と記されており、アスト部の首領であった。アルクタイは太師と称して傀儡ハーンのアダイ・ハーンを擁立し、事実上のモンゴル(韃靼)の最高権力者として30年近くにわたってドルベン・オイラト(4オイラト部族連合)とモンゴル高原の覇権を巡って争った。 1434年にアルクタイがオイラトとの戦いで亡くなると、アルクタイ配下の軍勢はオイラトの傀儡ハーン、トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)の勢力下に入った。この時アスト部族長の地位を継承したのがアルクタイの息子バヤン・テムルで、バヤン・テムルは「第2知院」という高い地位を与えられてオイラト内でも比較的大きな勢力を保持した。しかし、1454年にアラク・テムルが叛乱を起こすと、バヤン・テムルはエセン・ハーンと同じゲルの中にいた所をアラク・テムルの元部下に襲われ、共に殺されてしまった。 エセンとバヤン・テムルの死後、「オイラト帝国」が瓦解する中で有力になったのが「ハラチン部のボライ」で、首領を失ったアスト部はボライに服属したものとみられる。しかし、ボライはアルクタイのように東モンゴル全体を統一することができず、ベルグテイ王家のモーリハイによって殺されてしまった。ボライの後を継いだのがその部下のオロチュで、オロチュはアスト部の出身ではなかったもののボライの勢力を受け継いで引き続きモーリハイと戦った。
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