ハーン即位から没落までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ハーン即位から没落までの意味・解説 

ハーン即位から没落まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:49 UTC 版)

エセン・ハーン」の記事における「ハーン即位から没落まで」の解説

正統帝身代金問題によりエセン外交的地位弱まりエセン打倒をはかる内紛起こった1451年には、モンゴル高原ではエセンとその名目上主君であるトクトア・ブハ・ハーンとの間の紛争発展した紛争理由は、トクトア・ブハエセンの姉が産んだ男子ハーン位後継者である太子にせず、別の妻が産んだ子を太子立てたためと伝えられている。1452年初頭トクトア・ブハは兵を上げてエセン倒そうとしたがエセン逆襲にあい、殺された。 エセントクトア・ブハ打倒と、明との交易再開によって、かつての地位安定回復した添元元年8月10日1453年9月12日)、エセンは自らハーン即位し、「大元天盛可汗」と称した。明はエセン即位困惑したが、「オイラトハーン」として彼の立場認めた。しかし、モンゴルだけでなくオイラトその他まで含めモンゴル高原人々の間には反発招いたエセン母方でこそチンギス・カン血を引いているものの、チンギス男系子孫ではなく、そのハーン即位13世紀以来チンギス統原理反していた。また、諸部族によってハーン相応しい者としてクリルタイ大集会)で選出されたわけでもなかった。 即位翌年添元2年1454年)、オイラト内部エセン対す反乱起こりオイラト有力者アラク・テムル(阿剌知院)に敗れたエセンは、逃亡途中殺された。モンゴル年代記によればアラクは、エセンハーン即位以前称号であり、ハーン第一臣下意味するタイシ」の称号与えられることをエセン願った拒否されたため、これを怨んで反乱起こしたという。 エセン死後オイラトモンゴルをもはや支配できず、数年のうちに分裂してしまった。

※この「ハーン即位から没落まで」の解説は、「エセン・ハーン」の解説の一部です。
「ハーン即位から没落まで」を含む「エセン・ハーン」の記事については、「エセン・ハーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハーン即位から没落まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハーン即位から没落まで」の関連用語

ハーン即位から没落までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハーン即位から没落までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエセン・ハーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS