ハーン即位から没落まで
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「エセン・ハーン」の記事における「ハーン即位から没落まで」の解説
正統帝の身代金問題によりエセンの外交的地位は弱まり、エセン打倒をはかる内紛が起こった。1451年には、モンゴル高原ではエセンとその名目上の主君であるトクトア・ブハ・ハーンとの間の紛争に発展した。紛争の理由は、トクトア・ブハがエセンの姉が産んだ男子をハーン位の後継者である太子にせず、別の妻が産んだ子を太子に立てたためと伝えられている。1452年初頭、トクトア・ブハは兵を上げてエセンを倒そうとしたがエセンの逆襲にあい、殺された。 エセンはトクトア・ブハの打倒と、明との交易再開によって、かつての地位の安定を回復した。添元元年8月10日(1453年9月12日)、エセンは自らハーンに即位し、「大元天盛大可汗」と称した。明はエセンの即位に困惑したが、「オイラトのハーン」として彼の立場を認めた。しかし、モンゴルだけでなくオイラトその他まで含め、モンゴル高原の人々の間には反発を招いた。エセンは母方でこそチンギス・カンの血を引いているものの、チンギスの男系子孫ではなく、そのハーン即位は13世紀以来のチンギス統原理に反していた。また、諸部族によってハーンに相応しい者としてクリルタイ(大集会)で選出されたわけでもなかった。 即位翌年の添元2年(1454年)、オイラトの内部でエセンに対する反乱が起こり、オイラトの有力者アラク・テムル(阿剌知院)に敗れたエセンは、逃亡の途中に殺された。モンゴルの年代記によれば、アラクは、エセンのハーン即位以前の称号であり、ハーンの第一の臣下を意味する「タイシ」の称号を与えられることをエセンに願ったが拒否されたため、これを怨んで反乱を起こしたという。 エセンの死後、オイラトはモンゴルをもはや支配できず、数年のうちに分裂してしまった。
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