ダヤン・ハーン一族との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「ダヤン・ハーン一族との関係」の解説
なお、岡田英弘はオルク・テムル・ハーンの息子アダイ・ハーンは、モンゴル高原の遊牧民の再統合を果たし、モンゴル中興の祖と称されるダヤン・ハーン(生没年は1473年/1474年 - 1516年/1517年が、即位年は1479年/1480年が有力)の曾祖父アクバルジ・ジノンとアダイ・ハーンを捕殺して即位したトクトア・ブハ(タイスン・ハーン)、ダヤン・ハーンの先代マンドゥールン・ハーンの3兄弟の父(ダヤン・ハーンの高祖父)アジャイ・タイジと同一人物であるという説を主張している。この説ではダヤン・ハーン一族はオゴデイ家の後裔となり、トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)とアクバルジ・ジノン、マンドゥールン・ハーンはオルク・テムル・ハーンの孫達となる。トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)は実父(この場合、アダイ・ハーン=アジャイ・タイジ)を殺害して、ハーン位に就いたことになる。 しかし、中国で編纂された『明史』『万暦武功録』では、アジャイ・タイジの長男トクトア・ブハはオゴデイの弟トルイの四男クビライを始祖とする元の王家の出身とされている。実際、1442年にトクトア・ブハが李氏朝鮮の世宗に宛てて出した書簡では、クビライの子孫を自称している。1368年に元が明の攻勢によって中国の保持が困難と判断してモンゴル高原に北走した時からダヤン・ハーン以前の時代には、ハーン位が頻繁に交代するなどの政治的混乱の為にチンギス・ハーン一族の記録や伝承が混乱しており、チンギスからダヤンに至る系譜は確実ではないことも確かである。ただ、傍証や後の時代の系譜書から、歴史家はダヤン・ハーンがクビライの後裔にあたると考えている(ダヤン・ハーン自身もクビライの後裔を称している)。この説を補強するものとして、ブヤンデルゲルはウハート・ハーン(順帝トゴン・テムル)からダヤン・ハーンに至る北元時代の帝系について考察し、(1)ウハート・ハーン,(2)ビリクト・ハーン,(3。明王朝の捕虜となったビリクトの息子「マイダリ・バラ」と同一視される)エルベク・ハーン,(4。エルベクの弟とする説もあるが、「ホンタイジ=皇太子」という称号から見て、実際には息子であるとする説が主流)ハルグチュク・ホンタイジ,(5)アジャイ・タイジ,(6)アクバルジ・ジノン,(7)ハルグチュク・タイジ,(8)ボルフ・ジノン,(9)ダヤン・ハーンという一本筋の通った系図を描けると想定している(この想定された系図は、クビライの弟アリクブケの後裔という異説があるエルベク・ハーンがクビライ家の一員かつビリクト(アユルシリダラ)の息子で、ダヤン・ハーンの祖先と位置づけるモンゴル年代記の記述とも一致している)。
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