ダヤン・ハーンの再統一以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:00 UTC 版)
「オンリュート」の記事における「ダヤン・ハーンの再統一以後」の解説
マンドフイ・ハトンとの結婚によってマンドゥールン・ハーンの遺産を相続し、ハーンに即位したダヤン・ハーンは分裂していたモンゴル諸部族の再統一に着手した。その過程でオンリュート諸部もまたダヤン・ハーンに服属し、ダヤン・ハーンが右翼3トゥメンを討伐した際にはこれに協力して参戦している。ダヤン・ハーンの死後にはその子孫が勢力争いを起こし、正統なハーンであるボディ・アラクはアルタン・ハーンの圧迫を受けて東方への移動を余儀なくされた。この「東遷」によってウリヤンハイ三衛は打撃を受けたようで、この時期に泰寧衛・福余衛当主の家系は断絶した。 建州女直においてヌルハチの統治する後金が勃興すると、これに接するオンリュート諸部はモンゴルの諸部族中でいち早く後金と交流を持った。後金が大清と国号を改め、勢力を拡大させてゆくとオンリュート諸部は漸次清朝に降ってゆき、特にホルチン部はアイシンギョロ家の姻族として重視された。この頃よりチンギス・カン諸弟の末裔を「オンリュート」と総称することはなくなり、カチウンを始祖とする1部族のみが「オンリュート部」と称されるようになった。清代の文献ではこの「オンリュート部」の遠祖をテムゲ・オッチギンであるとし、その子孫モンケ・チャガン・ノヤンをオンリュート部開祖と位置づけているが、他のモンゴル語史書の記述などから実際にはこの部族の始祖はカチウンではないかと見られている。
※この「ダヤン・ハーンの再統一以後」の解説は、「オンリュート」の解説の一部です。
「ダヤン・ハーンの再統一以後」を含む「オンリュート」の記事については、「オンリュート」の概要を参照ください。
- ダヤン・ハーンの再統一以後のページへのリンク