ダヤン・ハーンの即位
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「ダヤン・ハーン」の記事における「ダヤン・ハーンの即位」の解説
1479年、マンドゥールン・ハーンが崩御したとき、後継ぎがいなかったためハーンが空位となった。17世紀半ばにサガン・セチェンが著した『蒙古源流』によると、この時ホルチン部の君主ウネバラトは自らがチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの子孫であることから、マンドゥールンの未亡人と結婚すればハーン位を得られると考えた。そこで、トゥメト部に属するオングト・オトク出身の皇后マンドゥフイ・ハトゥンに求婚したが、マンドゥフイはチンギス・カンの子孫の生き残りであるバトゥ・モンケが民間で暮らしていることを持ち出して断り、当時7歳となっていたバトゥ・モンケと再婚したという。 こうしてバトゥ・モンケはマンドゥフイ・ハトゥンとの結婚を経てエシ・ハトゥンの霊前でハーンに即位し、「ダヤン・ウルス(dayan ulus=大元ウルス)を支配するように」とダヤン・ハーン(dayan qaγan)を称した。ダヤン・ハーンの即位年には諸説あるが、成化16年(1480年)には明軍が威寧海子でダヤン・ハーン率いるモンゴル軍と干戈を交えたことが記録されており、前年の1479年に即位したとする説が有力である。 一方、明朝の漢文史料はマンドゥフイ・ハトゥンについて全く言及しておらず、かつてマンドゥールン・ハーンの側近であったヨンシエブ部のイスマイル、モンゴルジン=トゥメト部のトゥルゲンがバト・モンケを擁立したと記している。このため、実際にはマンドゥフイの配慮とイスマイルの後ろ盾、2つの要因によってバトゥ・モンケは即位できたのだと考えられている。 「ダヤン・ハーン(dayan qaγan)」という称号は、明朝で「大元大可汗」と記録されている。このため、「ダヤン」というハーン号はクビライ王家の国号である「大元(dai-ön)」がモンゴル語に取り入れられたものと言われ、バトゥ・モンケの大元ウルス再興を目指す意志を表すと解されている。しかし、モンゴル年代記が編纂されるようになった17-18世紀には既に「ダヤン(dayan)」の本来の意味が半ば忘れ去られており、「大元ウルスを支配するハーン」ではなく「全ての人民(ウルス)を支配するハーン」といった意味で解釈する年代記も存在する。 また、大元ウルス=元朝は既に滅亡したという立場を取る明朝は一度を除いてダヤン・ハーンを「大元大可汗」と称することはなく、その存命中は「小王子」と呼び続けた。これがダヤン・ハーンの年代の比定を難しくする要因の1つとなっている。
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