ダヤン・ハーンの即位とは? わかりやすく解説

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ダヤン・ハーンの即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:11 UTC 版)

ダヤン・ハーン」の記事における「ダヤン・ハーンの即位」の解説

1479年マンドゥールン・ハーン崩御したとき、後継ぎがいなかったためハーン空位となった17世紀半ばサガン・セチェン著した『蒙古源流』によると、この時ホルチン部君主ウネバラトは自らがチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの子孫であることから、マンドゥールンの未亡人結婚すればハーン位得られる考えた。そこで、トゥメト部属するオングト・オトク出身皇后マンドゥフイ・ハトゥン求婚したが、マンドゥフイはチンギス・カンの子孫の生き残りであるバトゥ・モンケ民間暮らしていることを持ち出して断り当時7歳となっていたバトゥ・モンケ再婚したという。 こうしてバトゥ・モンケマンドゥフイ・ハトゥンとの結婚経てエシ・ハトゥンの霊前ハーン即位し、「ダヤン・ウルス(dayan ulus=大元ウルス)を支配するように」とダヤン・ハーン(dayan qaγan)を称した。ダヤン・ハーンの即位年には諸説あるが、成化16年1480年)には明軍威寧海子ダヤン・ハーン率いモンゴル軍干戈を交えたことが記録されており、前年1479年即位したとする説が有力である。 一方明朝漢文史料マンドゥフイ・ハトゥンについて全く言及しておらず、かつてマンドゥールン・ハーン側近であったヨンシエブ部のイスマイル、モンゴルジン=トゥメト部トゥルゲンバト・モンケ擁立した記している。このため実際にはマンドゥフイの配慮イスマイル後ろ盾2つ要因によってバトゥ・モンケ即位できたのだと考えられている。 「ダヤン・ハーン(dayan qaγan)」という称号は、明朝で「大元可汗」と記録されている。このため、「ダヤン」というハーン号クビライ王家国号である「大元(dai-ön)」がモンゴル語取り入れられたものと言われバトゥ・モンケ大元ウルス再興目指す意志を表すと解されている。しかし、モンゴル年代記編纂されるようになった17-18世紀には既に「ダヤン(dayan)」の本来の意味半ば忘れ去られており、「大元ウルス支配するハーンではなく全ての人民(ウルス)を支配するハーン」といった意味で解釈する年代記存在するまた、大元ウルス元朝は既に滅亡したという立場を取る明朝一度除いてダヤン・ハーンを「大元可汗」と称することはなく、その存命中は「小王子」と呼び続けた。これがダヤン・ハーンの年代比定難しくする要因1つとなっている。

※この「ダヤン・ハーンの即位」の解説は、「ダヤン・ハーン」の解説の一部です。
「ダヤン・ハーンの即位」を含む「ダヤン・ハーン」の記事については、「ダヤン・ハーン」の概要を参照ください。

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