モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 04:04 UTC 版)
「ケシク・オロク」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
ガワンシャラブ著『四オイラト史』はチョロース氏族長の1人としてケシク・オロク(Kešiq öröq)の名を挙げており、これが明朝が記録した克失/克舎に相当する。『四オイラト史』はオシュ・テムルに相当するオシュトモイ・ダルハン・ノヤン(Öštömöi dar-xan noon)の玄孫をケシク・オロクとしているが、オシュ・テムルとケシク・オロクの活躍年代からして間の三代の存在は疑わしく、実際にはオシュトモイ(オシュ・テムル)の息子がケシク・オロクであると考えられている。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「ケシク・オロク」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「ケシク・オロク」の記事については、「ケシク・オロク」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/14 04:24 UTC 版)
「オロチュ」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
モンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』ではオイラトのゴルン・ミンガンのオキデイ大夫、モンゴルのハラチンのボライ太師、サルトールのバヤンタイ・メルゲン、フンギラトのエセレイ大夫らの手によってエセン・ハーンの下より逃れたボルフ・ジノンが道中で「ウルートのオロチュ少師(Uruγd-un Oroču sigüsi)」と出会い、そこでオロチュ少師の娘シキル・ハトンを娶ったことが記されている。ボルフ・ジノンとシキル・ハトンの間にはバト・モンケ(ダヤン・ハーン)が生まれ、バト・モンケはマンドフイ・ハトンと「ジャライルのフトゥク少師」の娘スミル・ハトンを娶ったという。しかし、『アルタン・トプチ』を始めとする他の年代記ではバト・モンケの母親(シキル・ハトン)と側室(スミル・ハトン)の父親について多くの異同があり、両者を逆にする記述、どちらも同一人物とする記述などが存在する。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「オロチュ」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「オロチュ」の記事については、「オロチュ」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 07:18 UTC 版)
「モンケ (オルドス部)」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
モンゴル年代記の一つ、アルタン・トブチには「オルドスのモンケ」と「カダ・ブカ」の二人がモーラン・ハーンとモーリハイ・オンに偽りの報告をしたために両者が殺し合うことになり、モーラン・ハーンがモーリハイ・オンに殺された後にその妃モングチュイが嘆き悲しみこの弑逆の原因はモンケとカダ・ブカにあると歌ったことが記録されている。この「オルドスのモンケ(Ordos-yin Möngke)」は明朝の記す「猛可丞相」と活動時期、所属(オルドス部)が一致するため、同一人物であると考えられている。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「モンケ (オルドス部)」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「モンケ (オルドス部)」の記事については、「モンケ (オルドス部)」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:46 UTC 版)
「イェスデル」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
イェスデルと、その後継者エンケの治世は17世紀以降に編纂されるようになった多くのモンゴル年代記の中で、最も情報が錯綜している箇所である。まず、モンゴル年代記の中で最も著名な『エルデニイン・トブチ(蒙古源流)』はウスハル・ハーンの没後に「エンケ・ジョリクト・ハーン」なる人物が1389年(己巳)から1392年(壬申)にかけて在位し、その後エルベク・ハーンが1393年(癸酉)から1399年(己卯)まで在位していたとする。一方、18世紀に入ってから編纂された『ガンガイン・ウルスハル(恒河の流れ)』では『蒙古源流』とは全く異なる記述をしており、「ジョリクト・ハーン」が1389年(己巳)〜1391年(辛未)、「エンケ・エルベク・ハーン」が1392年(壬申)〜丁丑(1397年)に在位していたとする。最後に、最も早期に編纂されたとみられる『アルタン・トブチ(黄金史綱)』は「ジョリクト・ハーン」、「エンケ・ハーン」、「エルベク・ハーン」という3人のハーンが立ったとし、それぞれの在位年代を1388年(辰年)〜1391年(未年)、1391年(未年)〜1394年(戌年)、1394年(戌年)〜1399年(卯年)とする。 このようなモンゴル年代記の情報の混乱を正しうるのが、同時代にティムール朝で編纂されたペルシア語史書である。ティムール朝で編纂された『ザファル・ナーマ(勝利の書)』などの史書は一致してウスハル・ハーンの後、یسودار(Yesüder>Yisudar>yīsūdār)、انکه(Engke>Änkä>anka)、・الیک(Elbeg>Älbäk>alyak)、という3人のハーンが立ったとする。yīsūdār、anka、alyakは明らかにイェスデル、エンケ、エルベクを指し、このようなペルシア語史書の記録はこれら3名を別人とする『アルタン・トブチ』の記述が最も正しいことを立証する。また、明朝で編纂された漢文史料ではエンケ、エルベクの治世について全く言及しないが、『明実録』には「アユルシリダラからクン・テムルに至るまで[ハーンは]凡そ6代……(自順帝之後、伝愛由識里達臘至坤帖木児凡六輩……)」という記述がある。これも、アユルシリダラ(ビリクト・ハーン)/トグス・テムル(ウスハル・ハーン)/イェスデル(ジョリクト・ハーン)/エンケ・ハーン/エルベク・ハーン/クン・テムル・ハーンと数えると丁度6代となり、ジョリクト/エンケ/エルベクをそれぞれ別人とする『アルタン・トブチ』/『ザファル・ナーマ』の記述の正しさを裏付ける。 なお、『蒙古源流』のみは「エンケ・ジョリクト・ハーン」の血縁関係について言及しており、ウスハル・ハーンの息子で、エルベク・ハーンとハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジの兄であったとする。しかし、同時代に編纂された『華夷訳語』でアリク・ブケの末裔と明記されるジョリクト(イェスデル)がクビライ直系のウスハル・ハーンの息子であるわけがなく、この系図は甚だ疑わしいものである。また、ハルグチュクの後裔にあたるタイスン・ハーン、ダヤン・ハーンらはいずれもクビライ家の末裔を称しており、ハルグチュクとの兄弟関係も疑わしい。 イェスデル(ジョリクト・ハーン)とエンケ・ハーンの治世の記録史料イェスデルエンケエルベク『明実録』 也速迭児(yěsùdiéér) 記録なし 『蒙古源流』 Engke J̌oriγtu qaγan(1389年〜1392年) Elbeg qaγan(1393年〜1399年) 『恒河之流』 J̌oriγtu qaγan(1389年〜1391年) Engke Elbeg qaγan(1392年〜1397年) 『黄金史綱』 J̌oriγtu qaγan(1388年〜1391年) Engke qaγan(1391年〜1394年) Elbeg qaγan(1394年〜1399年) 『勝利の書』 یسودار(yīsūdār) انکه(anka) الیک(alyak)
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「イェスデル」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「イェスデル」の記事については、「イェスデル」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 00:42 UTC 版)
「ボライ」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
『蒙古源流』を初めとする年代記にはボライの事蹟について殆ど何も記されておらず、エセンがチンギス・ハーンの末裔を殺戮しようとした際に、バヤン・モンケ(ダヤン・ハーンの父)を脱出させるのに協力した者の一人として名前が挙げられているのみである。一方、マルコルギス・ハーンの擁立に関してはその母である小ハトン・サムル太后が尽力した事が記されているが、サムル太后について明朝側には全く記載がない。これは、自身もまたボルジギン氏である著者サガン・セチェンが敢えて太后の功績を特筆することで、ハーンを傀儡とし権力を握ったボライの功績を故意に貶めようとしたためであると推測されている。ダヤン・ハーンの即位について、マンドフイ・ハトンの功績を特筆しイスマイル・タイシの役割を述べないのも同様の理由であると見られる。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「ボライ」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「ボライ」の記事については、「ボライ」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 06:33 UTC 版)
「オシュ・テムル」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
エセンの後を継いだチョロース氏族長を、ガワンシャラブ著『四オイラト史』はオシュトモイ・ダルハン・ノヤン(Öštömöi dar-xan noon)、『西域同文志』はエスメト・ダルハン・ノヤン(Esmet darhan noon)としており、これが明朝が記録した阿失帖木児に相当する人物であると考えられている。また『西域同文志』はエスメト・ダルハン・ノヤンの後継者をエストゥミ(Estumi)としているが、エスメト・ダルハン・ノヤンとエストゥミは同じ人物を誤って二人に分けたもので、どちらもオシュトモイ(Öštömöi)から派生した人名である。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「オシュ・テムル」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「オシュ・テムル」の記事については、「オシュ・テムル」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:24 UTC 版)
「ムラク」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
17世紀に編纂されたモンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』にはウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に仕えた「アルラトのボオルチュ・ノヤンの末裔で、ラハという者の息子のイラク丞相」なる人物が登場する。「イラク」という人名は「ムラク」に由来すると考えられるが、「ウカアト・カアンに仕えた丞相」という点ではムラクの息子のアルクトゥに近く、恐らくこの人物はムラク、アルクトゥ父子を混同して作り上げた人物像であると考えられる。 イラク丞相はジュゲ・ノヤン(明朝の建国者朱元璋に相当する)が生まれた時、その家から五色の虹が立ったのを見て、モンゴルにとって悪しき兆候であり早く殺すべきであると進言したが、ウカアト・カアンはこれに従わなかった。以上の逸話を踏まえ、朱元璋によって大都を失陥したウカアト・カアンが歌ったとされる「恵宗悲歌」には「覚りて語れるイラク丞相の言を用いざりし我が害よ」という一節がある。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「ムラク」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「ムラク」の記事については、「ムラク」の概要を参照ください。
モンゴル年代記における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:24 UTC 版)
「アルクトゥ」の記事における「モンゴル年代記における記述」の解説
17世紀に編纂されたモンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』にはウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に仕えた「アルラトのボオルチュ・ノヤンの末裔で、ラハという者の息子のイラク丞相」なる人物が登場する。「イラク」という人名は「ムラク」に由来すると考えられるが、「ウカアト・カアンに仕えた丞相」という点ではムラクの息子のアルクトゥに近く、恐らくこの人物はムラク、アルクトゥ父子を混同して作り上げた人物像であると考えられる。 イラク丞相はジュゲ・ノヤン(明朝の建国者朱元璋に相当する)が生まれた時、その家から五色の虹が立ったのを見て、モンゴルにとって悪しき兆候であり早く殺すべきであると進言したがウカアト・カアンはこれに従わなかった。その後、ジュゲ・ノヤンが成長すると「私の東の州の国人を、ジェイ老爺の息子のジュゲとブカ兄弟が首領になれ」と述べて大権を任せ、結果としてジュゲ・ノヤンの叛乱によってウカアト・カアンは大都を失ってしまう。 無論、このような『蒙古源流』の記述は史実と全く異なるものであるが、「ジュゲ・ノヤンとブカを東の州の国人の首領とした」というのは、アルクトゥ(=ジュゲ)とベルケ・ブカ(=ブカ)が1344年から1346年にかけて国政を取り仕切っていた史実を下敷きにした伝承ではないかと考えられている。この伝承においてジュゲ・ノヤンの生年(甲申=1344年)がアルクトゥとベルケ・ブカが丞相の地位に就いた至正4年(1344年)と一致するのも、「ジュゲ・ノヤン」がアルクトゥをモデルの一人としていることを示唆していると考えられる。総じて、モンゴル人の間でもアルクトゥは元末において大きな役割を果たした重要な人物として断片的ではあるが伝承が伝えられていたことが窺える。
※この「モンゴル年代記における記述」の解説は、「アルクトゥ」の解説の一部です。
「モンゴル年代記における記述」を含む「アルクトゥ」の記事については、「アルクトゥ」の概要を参照ください。
- モンゴル年代記における記述のページへのリンク