モンゴル支配からの脱却とは? わかりやすく解説

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モンゴル支配からの脱却

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:45 UTC 版)

タタールのくびき」の記事における「モンゴル支配からの脱却」の解説

モスクワ大公国」も参照 ルーシ名目上支配してきたキエフ大公国、およびルーシ割拠する諸公国に対すモンゴル侵入影響決し一様ではなかった。ジョチ・ウルス成立以後ルーシにおける政治は、その重心南西ルーシキエフから北東ルーシウラジーミルへと移した上述のように、ハン国成立後ただちにサライおとずれバトゥ服従意志示したウラジーミル大公ヤロスラフは「ルーシすべての公の長」として遇された。しかし、そのウラジーミルもまたモンゴル軍徹底的な破壊により住民四散しており、35年間も主教不在の状態がつづいていた。 キエフウラジーミルのような従来中心都市モンゴルによる破壊から立ち直ることがなかなかできなかったのに対し、北に遠く離れた自由都市ノヴゴロドのみは侵略免れたヤロスラフもその長子アレクサンドル・ネフスキー大公としてウラジーミルに居を定めたが、その後継者たちは大公となってウラジーミルには移らず、みずからの世襲領国ノヴゴロドにいることが多かった。しかし、モンゴル侵入によってルーシ諸国崩壊した後の空白地帯であったトヴェリモスクワなどでは、そこを本拠とした勢力台頭し、やがてノヴゴロド圧迫するようになった。それがトヴェリ大公国であり、モスクワ大公国であったモスクワは、キエフ・ルーシ時代には名前も知られていなかった北東ルーシ小都市にすぎなかった。そして、モンゴルハンによって厳重に支配管理されるようになったルーシ諸侯のなかから、モンゴルとの関係巧妙に利用し権力握っていったのが、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキー北東ルーシの諸公国分封されたその子孫たちであった1263年アレクサンドル・ネフスキーが死ぬと、弟のトヴェリ公ヤロスラフヤロスラフ3世)がウラジミール大公位を継承し彼の末子ダニイルモスクワ公国受け継いだダニイル幼少だったため当初叔父ヤロスラフ3世後見受けていたが、やがて両者大公位をめぐって対立するようになった。この対立それぞれの子の代に決定的となったモスクワ公ユーリー・ダニイロヴィチはサライ2年とどまりハン姻戚関係むすんでウラジミール大公位を認められたが、それまで大公トヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチはこの決定に従わなかった。ミハイル交戦してサライ逃げ帰ったユーリーは、ミハイル反逆ジョチ・ウルス第10代君主であるウズベク・ハン訴えたミハイルサライ召喚され処刑されユーリー1318年ウラジーミル入ってウラジーミル大公ユーリー3世となったが、1325年ミハイル息子ドミートリー・ミハイロヴィチによって殺された。ドミートリーもまた父同様ウズベク・ハンにより、ハン命令に従わなかったとして処刑された。 この争いから抜け出したのは、ユーリー3世の弟のイヴァンイヴァン1世であった1327年ウズベク・ハン意図したバスカク代官制度復活対しトヴェリ民衆暴動起きトヴェリ公アレクサンドルジョチ・ウルス対す反乱勢力に加わると、ウラジーミル大公位をめぐって再び対立関係にあったトヴェリ最大ライバルモスクワ公イヴァン1世モンゴルの側に回りウズベク・ハンとともにトヴェリ破って、これを徹底的に破壊したイヴァン1世トヴェリ公追放させ、ウラジーミル大公位を獲得することに成功した。これ以後歴代モスクワ公ウラジーミル大公独占することが多くなり、モスクワ大公称号呼ばれるようになったルーシ国々なかでもモスクワ北部および東部勢力強めることができたのは、南部ルーシ大国モンゴルによって徹底的に壊滅されてしまったことが要因のひとつであり、また、モンゴル側からすれば、モスクワ他国以上に多額の税をハン国もたらした考えられるモスクワ公がこの時期さかんにノヴゴロド介入しノヴゴロド公地位兼ねることに力を入れていることも、この豊かな都市国家支配下収めることで貢税資金得ようしたものだと考えられるイヴァン1世は、ハンのために徴収した税の一部着服し豊かになり、その財力領地を買い集め、結婚政策武力用いて領土拡大努めた1326年モスクワ大公イヴァン1世は、モスクワ最初石造教会堂であるウスペンスキー教会堂建てたうえで、コンスタンティノープル総主教にもはたらきかけ全ルーシ最高位聖職者当時ウラジーミルにいたキエフ府主教モスクワ迎え入れた。そして、1328年にはモスクワに「キエフ及び全ルーシ府主教」を遷座させることに成功した。これによってモスクワは、精神的にキエフかわってルーシ中心地となっていった。モスクワ公国モスクワ大公国呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ルーシ諸国代表してその意思ジョチ・ウルス伝えルーシ諸国に対してジョチ・ウルス意向伝え立場になり、その権力はますます強化された。モンゴルタタール遊牧民はしばしルーシ各地方襲って略奪はたらいたが、モスクワ大公支配する土地に対して一定の敬意払った。こうして、貴族やその部下たちは比較的平和が保たれモスクワ大公国集住するようになり、ルーシ諸国モスクワ庇護下に入ろうとする傾向生じたイヴァン1世経済力を入れ諸公国がハンにおさめる税の納入引き受けて勢力拡大し、「カリター(金袋)」の異名をとった。豊かな財力にものをいわせ、正教世界におけるモスクワ指導性を打ち立てた彼は、貧者への施しもまた忘れなかった。 1359年より始まるイヴァン1世の孫のドミートリードミートリー・ドンスコイ)の時代モスクワ大公国試練むかえた。のちに英雄視されるドミートリー善良知られるトヴェリ公ミハイル・アレクサンドロヴィチモスクワ招き、牢に投じて服従強要した。それに対しかろうじてトヴェリ帰還したミハイルは、妹の夫でリトアニア大公国ロシア語ではリトヴァ)の大公オリゲルド(アルギルダス)と盟約結んでモスクワ攻めようとした。当時リトアニアキエフスモレンスク領土加えた大国となっていた。オリゲルドはきわめて野心的で、年代記によれば悪賢い」「狡猾な」と形容される人物である。彼は弟(ケイストット)とともにしばしばドイツ騎士団破って、その東進阻む一方、自らも南東方向進出してモンゴル勢力駆逐努めた。オリゲルド陣営に付けモンゴル支配から脱することができると考えた人びとリトアニア降ったこうした情勢乗じ、オリゲルドは全ロシア覇権もくろんだ。オリゲルドにそそのかされトヴェリ公は、1368年1370年1372年3度わたってモスクワ攻めたが、モスクワ側があらかじめ城壁石造にしていたこともあって、いずれも不首尾に終わった。 この対立には、依然としてジョチ・ウルス介入双方から求められた。トヴェリ公ミハイルモスクワ公ドミートリーは、交互にウラジーミル大公位に就任することを認められたが、双方ともこれを名分として相手蹴落とそうとした。最終的に1375年ドミートリー大軍動かしてミハイル屈服させ、ついに和約結んだトヴェリ公モスクワ公優位認めタタール軍と戦闘状態に入ったときには共同作戦をおこなうことで合意した。こうしてルーシ結束してタタール軍に対するという方向がようやく見えてきた。 いっぽうジョチ・ウルスは、1357年ベルディ・ベク父殺しによってハン位を奪取したのち、反対派への粛清から始まる果てしない混乱時期にあった多年にわたる内紛のために統一損なわれ台頭するモスクワ公国発展抑えることはできなくなっていた。ベルディ・ベク死去後ジョチ・ウルスはさらに混迷の度を加え、この時期にはママイトクタミシュ2人ハン国主導権争いつづけていた。トクタミシュが、1370年サマルカンドムスリム王朝をひらいたティムール助力求めたのに対しママイの方はルーシへの影響力拡大によってこれに対抗しようとした。ママイリャザンニジニー・ノヴゴロド従属させ、リトアニア大公ヤガイロ(ヤゲウォ、ヨガイラ)からの加勢約束取り付けて弱体化した権力再建はかってモスクワ遠征企てたママイ軍にはタタールばかりではなく北カフカス諸民族クリミア半島集めた傭兵隊加わり、総兵員20万人をかぞえた。 1380年ドン川流域戦闘起こりドミートリー率いモスクワ大公国軍は、ママイ率いジョチ・ウルス政権(ママイ・オルダ)およびリトアニアなどの連合軍破り、「タタールのくびき」からの脱却第一歩踏み出した。これが史上名高いクリコヴォの戦い」であり、ドミートリーが「ドンスコイドン川の)」と敬称されるのも、この事績もとづいている。この戦いでモスクワ権威高まったが、ジョチ・ウルス再統一したトクタミシュ攻撃によってドミートリー・ドンスコイ再度ジョチ・ウルス臣従した。モスクワ大公国ジョチ・ウルスへの貢納をやめるのは、1480年ウグラ河畔の対峙イヴァン3世大オルダアフマド・ハン軍勢ウグラ川から撤退させて以後のことであったジョチ・ウルス分裂したが、その末裔となった国家にはカザン・ハン国アストラハン・ハン国クリミア・ハン国シビル・ハン国ノガイ・オルダなどがある。しかしすべて、モスクワ大公国から発展したロシア・ツァーリ国、あるいはその後ロシア帝国によって廃滅させられた。 ロシア史においてはモンゴルキエフ・ルーシを滅ぼさなかったとしたら、後世モスクワ大公国ロシア帝国として台頭することもなかっただろうという話題がしばしば提起されるモスクワ発展上述たようにモンゴル権力強く結びついてのことであった。そして、モンゴルによる侵入当初大規模な殺戮もたらした可能性があるものの、長期的に見ればその後ルーシにおける諸民族形成大きな影響与えたなかでも東スラヴ人モンゴル侵攻後の各地方異なる道を歩みロシア人ウクライナ人ベラルーシ人という異な民族がかたちづくられたと指摘されている。

※この「モンゴル支配からの脱却」の解説は、「タタールのくびき」の解説の一部です。
「モンゴル支配からの脱却」を含む「タタールのくびき」の記事については、「タタールのくびき」の概要を参照ください。

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