モンゴル支配からの脱却
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「タタールのくびき」の記事における「モンゴル支配からの脱却」の解説
「モスクワ大公国」も参照 ルーシを名目上支配してきたキエフ大公国、およびルーシに割拠する諸公国に対するモンゴル侵入の影響は決して一様ではなかった。ジョチ・ウルスの成立以後、ルーシにおける政治は、その重心を南西ルーシのキエフから北東ルーシのウラジーミルへと移した。上述のように、ハン国成立後ただちにサライをおとずれバトゥに服従の意志を示したウラジーミル大公ヤロスラフは「ルーシのすべての公の長」として遇された。しかし、そのウラジーミルもまたモンゴル軍の徹底的な破壊により住民が四散しており、35年間も主教不在の状態がつづいていた。 キエフやウラジーミルのような従来の中心都市がモンゴルによる破壊から立ち直ることがなかなかできなかったのに対し、北に遠く離れた自由都市のノヴゴロドのみは侵略を免れた。ヤロスラフもその長子アレクサンドル・ネフスキーも大公としてウラジーミルに居を定めたが、その後継者たちは大公となってもウラジーミルには移らず、みずからの世襲領国やノヴゴロドにいることが多かった。しかし、モンゴル侵入によってルーシの諸国が崩壊した後の空白地帯であったトヴェリやモスクワなどでは、そこを本拠とした勢力が台頭し、やがてノヴゴロドを圧迫するようになった。それがトヴェリ大公国であり、モスクワ大公国であった。モスクワは、キエフ・ルーシの時代には名前も知られていなかった北東ルーシの小都市にすぎなかった。そして、モンゴルのハンによって厳重に支配、管理されるようになったルーシ諸侯のなかから、モンゴルとの関係を巧妙に利用し権力を握っていったのが、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーと北東ルーシの諸公国に分封されたその子孫たちであった。 1263年、アレクサンドル・ネフスキーが死ぬと、弟のトヴェリ公ヤロスラフ(ヤロスラフ3世)がウラジミール大公位を継承し、彼の末子ダニイルがモスクワ公国を受け継いだ。ダニイルは幼少だったため当初は叔父のヤロスラフ3世の後見を受けていたが、やがて両者は大公位をめぐって対立するようになった。この対立はそれぞれの子の代に決定的となった。モスクワ公ユーリー・ダニイロヴィチはサライに2年間とどまり、ハンと姻戚関係をむすんでウラジミール大公位を認められたが、それまでの大公でトヴェリ公のミハイル・ヤロスラヴィチはこの決定に従わなかった。ミハイルと交戦してサライに逃げ帰ったユーリーは、ミハイルの反逆をジョチ・ウルスの第10代君主であるウズベク・ハンに訴えた。ミハイルはサライに召喚されて処刑され、ユーリーは1318年にウラジーミルに入ってウラジーミル大公ユーリー3世となったが、1325年、ミハイルの息子ドミートリー・ミハイロヴィチによって殺された。ドミートリーもまた父同様ウズベク・ハンにより、ハンの命令に従わなかったとして処刑された。 この争いから抜け出したのは、ユーリー3世の弟のイヴァン(イヴァン1世)であった。1327年、ウズベク・ハンが意図したバスカク(代官)制度復活に対し、トヴェリで民衆の暴動が起き、トヴェリ公アレクサンドルがジョチ・ウルスに対する反乱勢力に加わると、ウラジーミル大公位をめぐって再び対立関係にあったトヴェリの最大のライバル、モスクワ公イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク・ハンとともにトヴェリを破って、これを徹底的に破壊した。イヴァン1世はトヴェリ公を追放させ、ウラジーミル大公位を獲得することに成功した。これ以後、歴代のモスクワ公はウラジーミル大公を独占することが多くなり、モスクワ大公の称号で呼ばれるようになった。ルーシの国々のなかでもモスクワが北部および東部で勢力を強めることができたのは、南部ルーシの大国がモンゴルによって徹底的に壊滅されてしまったことが要因のひとつであり、また、モンゴルの側からすれば、モスクワが他国以上に多額の税をハン国にもたらしたと考えられる。モスクワ公がこの時期さかんにノヴゴロドに介入し、ノヴゴロド公の地位を兼ねることに力を入れていることも、この豊かな都市国家を支配下に収めることで貢税の資金を得ようとしたものだと考えられる。イヴァン1世は、ハンのために徴収した税の一部を着服して豊かになり、その財力で領地を買い集め、結婚政策や武力も用いて領土拡大に努めた。 1326年、モスクワ大公イヴァン1世は、モスクワに最初の石造の教会堂であるウスペンスキー教会堂を建てたうえで、コンスタンティノープル総主教にもはたらきかけ、全ルーシの最高位聖職者で当時はウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れた。そして、1328年にはモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功した。これによってモスクワは、精神的にもキエフにかわってルーシの中心地となっていった。モスクワ公国はモスクワ大公国と呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思をジョチ・ウルスに伝え、ルーシ諸国に対してはジョチ・ウルスの意向を伝える立場になり、その権力はますます強化された。モンゴル=タタールの遊牧民はしばしばルーシの各地方を襲って略奪をはたらいたが、モスクワ大公の支配する土地に対しては一定の敬意を払った。こうして、貴族やその部下たちは比較的平和が保たれたモスクワ大公国に集住するようになり、ルーシ諸国もモスクワの庇護下に入ろうとする傾向が生じた。イヴァン1世は経済に力を入れ、諸公国がハンにおさめる税の納入を引き受けて、勢力を拡大し、「カリター(金袋)」の異名をとった。豊かな財力にものをいわせ、正教世界におけるモスクワの指導性を打ち立てた彼は、貧者への施しもまた忘れなかった。 1359年より始まるイヴァン1世の孫のドミートリー(ドミートリー・ドンスコイ)の時代、モスクワ大公国は試練をむかえた。のちに英雄視されるドミートリーは善良で知られるトヴェリ公ミハイル・アレクサンドロヴィチをモスクワに招き、牢に投じて服従を強要した。それに対し、かろうじてトヴェリに帰還したミハイルは、妹の夫でリトアニア大公国(ロシア語ではリトヴァ)の大公オリゲルド(アルギルダス)と盟約を結んでモスクワを攻めようとした。当時、リトアニアはキエフやスモレンスクも領土に加えた大国となっていた。オリゲルドはきわめて野心的で、年代記によれば「悪賢い」「狡猾な」と形容される人物である。彼は弟(ケイストット)とともにしばしばドイツ騎士団を破って、その東進を阻む一方、自らも南東方向に進出してモンゴル勢力の駆逐に努めた。オリゲルド陣営に付けばモンゴル支配から脱することができると考えた人びとはリトアニアに降った。こうした情勢に乗じ、オリゲルドは全ロシアの覇権をもくろんだ。オリゲルドにそそのかされたトヴェリ公は、1368年、1370年、1372年と3度にわたってモスクワを攻めたが、モスクワ側があらかじめ城壁を石造にしていたこともあって、いずれも不首尾に終わった。 この対立には、依然としてジョチ・ウルスの介入が双方から求められた。トヴェリ公ミハイルとモスクワ公ドミートリーは、交互にウラジーミル大公位に就任することを認められたが、双方ともこれを名分として相手を蹴落とそうとした。最終的には1375年にドミートリーは大軍を動かしてミハイルを屈服させ、ついに和約を結んだ。トヴェリ公はモスクワ公の優位を認め、タタール軍と戦闘状態に入ったときには共同作戦をおこなうことで合意した。こうしてルーシは結束してタタール軍に対するという方向がようやく見えてきた。 いっぽうのジョチ・ウルスは、1357年にベルディ・ベクが父殺しによってハン位を奪取したのち、反対派への粛清から始まる果てしない混乱の時期にあった。多年にわたる内紛のために統一は損なわれ、台頭するモスクワ公国の発展を抑えることはできなくなっていた。ベルディ・ベク死去後のジョチ・ウルスはさらに混迷の度を加え、この時期にはママイとトクタミシュの2人がハン国の主導権争いをつづけていた。トクタミシュが、1370年にサマルカンドにムスリム王朝をひらいたティムールに助力を求めたのに対し、ママイの方はルーシへの影響力拡大によってこれに対抗しようとした。ママイはリャザンやニジニー・ノヴゴロドを従属させ、リトアニア大公ヤガイロ(ヤゲウォ、ヨガイラ)からの加勢の約束を取り付けて、弱体化した権力の再建をはかってモスクワ遠征を企てた。ママイ軍にはタタールばかりではなく、北カフカスの諸民族やクリミア半島で集めた傭兵隊も加わり、総兵員は20万人をかぞえた。 1380年、ドン川流域で戦闘が起こり、ドミートリー率いるモスクワ大公国軍は、ママイ率いるジョチ・ウルス系政権(ママイ・オルダ)およびリトアニアなどの連合軍を破り、「タタールのくびき」からの脱却の第一歩を踏み出した。これが史上名高い「クリコヴォの戦い」であり、ドミートリーが「ドンスコイ(ドン川の)」と敬称されるのも、この事績にもとづいている。この戦いでモスクワの権威は高まったが、ジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュの攻撃によってドミートリー・ドンスコイは再度ジョチ・ウルスに臣従した。モスクワ大公国がジョチ・ウルスへの貢納をやめるのは、1480年のウグラ河畔の対峙でイヴァン3世が大オルダのアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後のことであった。 ジョチ・ウルスは分裂したが、その末裔となった国家にはカザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シビル・ハン国、ノガイ・オルダなどがある。しかしすべて、モスクワ大公国から発展したロシア・ツァーリ国、あるいはその後のロシア帝国によって廃滅させられた。 ロシア史においては、モンゴルがキエフ・ルーシを滅ぼさなかったとしたら、後世モスクワ大公国がロシア帝国として台頭することもなかっただろうという話題がしばしば提起される。モスクワの発展は上述したようにモンゴルの権力と強く結びついてのことであった。そして、モンゴルによる侵入は当初大規模な殺戮をもたらした可能性があるものの、長期的に見ればその後のルーシにおける諸民族の形成に大きな影響を与えた。なかでも、東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という異なる民族がかたちづくられたと指摘されている。
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