沙州衛とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 沙州衛の意味・解説 

沙州衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/17 04:44 UTC 版)

沙州衛(さしゅうえい)は、河西回廊明朝が設置した羈縻衛所の一つで、現在の中華人民共和国甘粛省酒泉市敦煌市に設置されていた。名目上こそ明朝の統治下にある衛所の一つであるが、実態は元代から続くチャガタイ西寧王家を戴くモンゴル系国家であった。


  1. ^ 『明太祖実録』洪武二十四年正月戊申「沙州王子阿魯哥失里等遣国公抹台阿巴赤・司徒苦児蘭等貢馬及璞玉」
  2. ^ 杉山2004,272-274頁
  3. ^ 『明太宗実録』永楽三年十月癸酉「設沙州衛、以帰附頭目困即来・買住一人為指揮使。給賜印誥・冠帯・襲衣、沙州与赤斤接境云」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽五年五月壬申「勅甘粛総兵官西寧侯宋晟曰、聞来帰韃靼赤納本是沙州衛指揮使買住所部、今赤納為都指揮僉事、官居買住之上、亦是辺帥不審実以聞之過失、高下失倫、人不得其分、則心不平。今已陞買住為都指揮同知、賜誥命冠帯。自今凡来帰者、応授官職宜審定高下等第以聞或失其当咎有所帰」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽八年五月丁亥「遣人至城下謂哈剌馬牙等曰、爾受大明皇帝厚恩而忍為不義、我輩得安居農具種子皆官給、又為之疏水道漑田我食其利恩徳如此。我不能報而従爾為逆耶。今伺爾出城、必邀殺爾以報国家。至是、塔力尼与百戸薛失加及沙州衛指揮困即来所遣千戸可台等率衆千餘至城北、獲潰散餘賊六人送城中斬之、按兵而帰事聞。皇太子嘉之、遣使賜困即来・塔力尼等綵幣・綿布有差」
  6. ^ 『明太宗実録』永楽八年八月壬戌「遣使齎勅陞沙州衛指揮使困即来為都指揮僉事、指揮同知朶児只・察罕不花為指揮使指揮僉事、李答児卜顔哥為指揮同知、千百戸鎮撫兀魯思等十七人皆遞陞一級……嘉其不従哈剌馬牙等叛、且獲賊有功也。時沙州舎人把不台・赤斤舎人把児単等三十九人亦預効労、賜綵幣絹布」
  7. ^ 『明太宗実録』永楽九年五月甲戌「沙州衛都指揮困即来・赤斤蒙古衛指揮塔力尼等遣使貢馬、賜鈔幣有差」
  8. ^ 『明仁宗実録』永楽二十二年十二月己巳「……調山東左参政楊勉於広東布政司遣賜、掌沙州衛都指揮困即来及指揮薛迭古等綵幣・表裏、有差。先是、瓦剌賢義王太平所部知院阿老丁等来朝中道為人所阻為人、困即来等遣人衛送至京故嘉労之」


「沙州衛」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「沙州衛」の関連用語

沙州衛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



沙州衛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの沙州衛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS