安定衛前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 15:45 UTC 版)
クビライとアリクブケ兄弟による帝位継承戦争後、中央アジアのチャガタイ家ではカーン(大ハーン)の統制を離れて内部抗争が激化しており、多くのチャガタイ家王族が中央アジアを離れてクビライの統治する大元ウルスへ移住してきていた。チャガタイの庶長子モチ・イェベの孫であるバイダカンは1270年に大元ウルスに移住し、王爵を授与された。同年、移住してきたバイダカン率いる遊牧集団は疲弊していたため、遊牧生活を維持できる者たちはジュンガリア西部のコンクル・オルン(黄忽児玉良/Qongqur-ölüng)に、そうでない者たちは河西の諸城(粛州・沙州・甘州)に収容した。 バイダカンら大元ウルスに移住したチャガタイ系諸王は皆河西地方に居住し、クムルを拠点とするチュベイを中心とした緩やかなまとまり(チュベイ・ウルス)を形成していた。このため、バイダカンはチュベイとともに屡々カイドゥの軍勢と戦っている。クムルの豳王家を頂点として周囲のチャガタイ系王家が連合体を形成する、といった状況は明代に入っても変わらず、哈密衛(チュベイ家)と安定衛(バイダカン家)・沙州衛(スレイマン家)との関係にも引き継がれた。 バイダカンの息子と見られるトガンはバイダカンの後を継ぎ、皇慶2年(1313年)に朝廷から安定王に封ぜられた。泰定年間にはトガンの息子ドルジバルが安定王位を継承し、詳細は不明であるが明朝の成立まで安定王家は存続したものと見られる。
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