安定衛の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 15:45 UTC 版)
明朝が成立したばかりの頃、安定王家を継承していたのはブヤン・テムルであった。洪武7年(1374年)、安定王ブヤン・テムルは明朝に使者を派遣して明朝の冊封を受け、阿端方面の酋長もまた銅印を支給された。翌洪武8年(1375年)、ブヤン・テムルは再び使者を明朝に派遣して明朝の官職を授けるよう請願し、これを受けて洪武帝は安定衛・阿端衛を設置した。しかし洪武10年(1377年)には安定衛のブヤン・テムルとその息子が曲先衛の者達に殺されるという事件が起き、その後も番将ドルジバルがこの一帯を転戦したためサリク・ウイグル地方は荒廃するに至った。安定衛の混乱は洪武29年にようやく沈静化し、この時明朝は改めて安定衛指揮使司を設置した。
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