沙州衛史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 09:18 UTC 版)
永楽3年(1405年)、沙州の頭目コンジライ(困即来)・バイジュ(買住)が明朝に投降してきたため、永楽帝は命じて沙州衛を設置し、頭目を指揮使に任じた。永楽5年には買住の配下である赤納が明朝に来帰し、指揮僉事に任ぜられた。しかし、永楽帝はこれでは官位の上では赤納が買住の上に立ってしまうことになり、買住は不平を抱くであろうと考え、買住を昇進させて指揮同知とし、今後官職を授ける際にはよく事情を見極めて行えと布告した。 永楽8年(1410年)、カラマヤ(哈剌馬牙)が明朝に反逆すると、沙州衛指揮のコンジライ(困即来)は千戸のケフテイ(可台)らを一千余りの兵とともに派遣し、哈剌馬牙討伐に功績を挙げた。三カ月後にはこの功績を評価され、コンジライ(困即来)が都指揮僉事に、指揮同知ドルジ(朶児只)・チャガン・ブカ(察罕不花)が指揮僉事に、李荅児卜顔哥が指揮同知にそれぞれ昇進となり、千戸・百戸・鎮撫の役職にあるウルス(兀魯思)ら17人も皆1階級昇進となった。この時共闘し、同じく官職の昇進を受けた赤斤蒙古衛のタルニ(塔力尼)とは翌年一緒に明朝に使者を派遣し、下賜を受けている。永楽22年(1424年)にはオイラトの賢義王タイピンが派遣した使者を護送した功績によって沙州衛都指揮コンジライ(困即来)は綵幣・表裏を与えられた。
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