沙弥になる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正応5年(1292年)、数え15歳の文観は奈良に上り、まず興福寺の良恩のもとで3年ほど法相宗を学んだ(『瑜伽伝灯鈔』)。なぜ真言律宗の本拠地である西大寺ではなく、先に興福寺に入ったのかといえば、本末(寺社の従属関係)では、興福寺の方が本山に当たるからだったと考えられる。西大寺別当(西大寺の長官)は興福寺寺僧でもあった。また、叡尊は興福寺で真言律宗の布教活動をしたことがあり(『感身学正記』文永2年(1265年)閏4月8日条)、この当時、法相宗と真言律宗の間には交流もあった。 一通りの法相宗を修めた文観は、永仁3年(1295年)、同じ奈良にあり、真言律宗の総本山である西大寺に移った(『瑜伽伝灯鈔』)。そして、真言律宗第2世長老である信空(諡号は慈真和尚)のもと、律蔵(「三蔵」の一つで、仏典のうち僧団での規則や道徳などについての教えを説くもの)を学ぶことになった(『瑜伽伝灯鈔』)。 さらに、信空からは勤策十戒(ごんさくじっかい)というものを受けた(『瑜伽伝灯鈔』)。勤策十戒とは、沙弥十戒(しゃみじっかい)あるいは単に十戒とも言い、「不殺生」(人を殺してはならない)をはじめ、僧侶として守るべき10の戒律(規則)のことである。数え18歳にしてようやく文観は勤策=沙弥、つまり見習いとはいえ、正式な仏僧になったのである。
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