スナンシュジャ(且旺失加)の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 09:21 UTC 版)
「赤斤蒙古衛」の記事における「スナンシュジャ(且旺失加)の治世」の解説
宣徳元年(1426年)、赤斤蒙古衛では代替わりしてスナンシュジャ(且旺失加)が使者を派遣して朝貢し、これを受けて宣徳帝はスナンシュジャを都指揮同知に、指揮同知苟古者を都指揮僉事とした。翌宣徳2年(1427年)には赤斤蒙古衛千戸のサイフッディーン(賽夫丁)が朝貢に訪れ、また宣徳3年(1428年)にはティムール朝・モグーリスタン・ハン国に派遣された明朝の使者を支援した功績によって沙州衛・赤斤蒙古衛は下賜を受けた。宣徳5年(1430年)にはメクリン部の長モンケ・ブカ、沙州衛のコンジライ(困即来)とともに赤斤蒙古衛は明朝に朝貢し、明朝より下賜を受けた。 宣徳7年(1432年)には再びティムール朝に派遣された明朝の使者を護送し、またこの頃赤斤蒙古衛では代替わりして指揮僉事の子トクト(脱脱)やイルベイ(亦魯伯)が父の後を継いだ。同年秋には粛州より派遣された明朝の官軍が偵察中に殺されるという事件が起き、粛州都督の王貴は赤斤蒙古衛の仕業ではないかと疑い、これを罰するよう朝廷に報告すると同時に、私的に交易を行う赤斤蒙古人を取り締まるよう上奏した。この後、赤斤蒙古衛より明朝に来帰する者が相継ぎ、彼等の報告によって王貴こそが不正を行っていたことが明らかになり王貴は捕らえられた。 正統元年(1436年)に入り、赤斤蒙古衛都指揮スナンシュジャの要請によってその部下の倉児吉や省吉らの官位が昇格された。同年には赤斤蒙古衛千戸の把都麻が賊の首長になるという事件が起き、明朝に来帰する者が相継いだが、赤斤蒙古衛都指揮同知スナンシュジャはトゴン・テムル、モンケ・ブカら討伐の功績によって都指揮使に昇格となっている。
※この「スナンシュジャ(且旺失加)の治世」の解説は、「赤斤蒙古衛」の解説の一部です。
「スナンシュジャ(且旺失加)の治世」を含む「赤斤蒙古衛」の記事については、「赤斤蒙古衛」の概要を参照ください。
- スナンシュジャの治世のページへのリンク