タルニの治世とは? わかりやすく解説

タルニ(塔力尼)の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 09:21 UTC 版)

赤斤蒙古衛」の記事における「タルニ(塔力尼)の治世」の解説

永楽2年1404年)、北元丞相クチュ息子タルニ(塔力尼)は500余り部下率いて哈剌禿の地より明朝に来帰し、これを受けて永楽帝は赤斤蒙古千戸所を設置し、タルニをその千戸長とした。永楽8年1410年)には「赤斤蒙古千戸所」を昇格させて「赤斤蒙古衛」とし、同時に千戸長のタルニを指揮僉事に、百戸長らを千戸長に昇格させた上で漢人風の姓名賜った永楽9年1411年)には赤斤蒙古衛指揮タルニは沙州衛指揮コンジライ(困即来)とともに明朝朝貢している。 永楽10年1412年)、明朝に叛したラオディカン(老的罕)が赤斤蒙古衛逃れ、衛指揮のタルニがこれを匿うという事件が起こった。これを受けて永楽帝豊城李彬赤斤蒙古衛討伐するよう命じたが、李彬楊栄らは「今は冬の季節で兵を動かすには適さず、また罪を犯した者は数名であるのに軍を動かせば無辜の者にも害が及ぶでしょう」と上奏し、性急に軍を動かすことに反対した。そこで永楽帝改め赤斤蒙古衛指揮のタルニに使者派遣し、ラオディカンを引き渡せば厚く報償与えるが、これを拒否するならば軍を派遣するであろう通達した。翌永楽11年1413年)、永楽帝通達聞いたタルニは匿っていたラオディカンを捕らえ北京まで送らせた。この功績によってタルニは指揮僉事から指揮同知に、千戸長は正千戸それぞれ昇格となり、併せて下賜品が贈られた。

※この「タルニ(塔力尼)の治世」の解説は、「赤斤蒙古衛」の解説の一部です。
「タルニ(塔力尼)の治世」を含む「赤斤蒙古衛」の記事については、「赤斤蒙古衛」の概要を参照ください。

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