タルニ(塔力尼)の治世
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「赤斤蒙古衛」の記事における「タルニ(塔力尼)の治世」の解説
永楽2年(1404年)、北元の丞相クチュの息子タルニ(塔力尼)は500人余りの部下を率いて哈剌禿の地より明朝に来帰し、これを受けて永楽帝は赤斤蒙古千戸所を設置し、タルニをその千戸長とした。永楽8年(1410年)には「赤斤蒙古千戸所」を昇格させて「赤斤蒙古衛」とし、同時に千戸長のタルニを指揮僉事に、百戸長らを千戸長に昇格させた上で漢人風の姓名を賜った。永楽9年(1411年)には赤斤蒙古衛指揮タルニは沙州衛指揮コンジライ(困即来)とともに明朝に朝貢している。 永楽10年(1412年)、明朝に叛したラオディカン(老的罕)が赤斤蒙古衛に逃れ、衛指揮のタルニがこれを匿うという事件が起こった。これを受けて永楽帝は豊城侯李彬に赤斤蒙古衛を討伐するよう命じたが、李彬・楊栄らは「今は冬の季節で兵を動かすには適さず、また罪を犯した者は数名であるのに軍を動かせば無辜の者にも害が及ぶでしょう」と上奏し、性急に軍を動かすことに反対した。そこで永楽帝は改めて赤斤蒙古衛指揮のタルニに使者を派遣し、ラオディカンを引き渡せば厚く報償を与えるが、これを拒否するならば軍を派遣するであろうと通達した。翌永楽11年(1413年)、永楽帝の通達を聞いたタルニは匿っていたラオディカンを捕らえ、北京まで送らせた。この功績によってタルニは指揮僉事から指揮同知に、千戸長は正千戸にそれぞれ昇格となり、併せて下賜品が贈られた。
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