タルノヴォの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「タルノヴォの陥落」の解説
イヴァン・アレクサンダルの没後、ブルガリアの将来はバルカン半島の大国であるオスマン帝国とセルビアの動向に委ねられる。 プリレプの統治者ヴカシン(ヴルカシン)とセラエのデスポット・ウグリェシャ(英語版)が連合してオスマン軍を攻撃するが、1371年のマリツァの戦いで連合軍は壊滅し、両者は戦死した。オスマンは新たにブルガリア皇帝に即位したイヴァン・シシュマン(英語版)に対して、講和の条件の不履行を挙げて南ブルガリアへの攻撃を再開した。1375年にイヴァン・シシュマンはオスマンへの臣従と貢納を条件に条約を更新、イヴァン・シシュマンの妹ケラ・タマラがオスマンに送られてムラト1世の妻とされた。また、ヴィディンのイヴァン・スラツィミル、ドブルジャのドブロティツァ、ヴェルブジュドのコンスタンティン・デヤンら各地の封建勢力も、オスマンに対して臣従を誓った。1378年にオスマンは和約を破棄してブルガリアに進攻し、1382年にソフィアが陥落する。 オスマン帝国の拡大に際して、セルビアの公ラザル・フレベリャノヴィチはキリスト教徒による同盟の結成を呼びかけ、イヴァン・シシュマンはボスニア王ステファン・トヴルトコ(英語版)と共に同盟に参加した。しかし、イヴァン・スラツィミル、コンスタンティン・デヤン、ヴカシンの子マルコ・クラリエヴィッチ(英語版)らはオスマンに臣従を誓い、オスマンの軍事行動を支援した。1387年にラザルの連合軍はプロツニク(現在のプロクプリェ)近郊の戦いでオスマン軍に戦勝を収めるが、戦後にブルガリア帝国とドブルジャがオスマンの報復の標的にされる。 1388年春にオスマン帝国の大宰相チャンダルル・アリ・パシャ(英語版)が30,000の軍隊を率いてブルガリアに侵攻する。ブルガリア各地の要塞がオスマン帝国に占領されるが、ヴァルナとニコポリスはオスマンから守り通せた。イヴァン・シシュマンはヤンボル近郊に駐屯していたムラト1世のもとを自ら訪れて臣従の誓いを改めて示し、ブルガリアとオスマンの間に講和が成立する。1389年のコソボの戦いでラザルがオスマン帝国に敗れると、オスマン帝国はブルガリアの直轄地化を更に進めていく。 東ローマ帝国の弱体化、ワラキア公国のブルガリアへの進出といったバルカン半島の情勢を好機と見たオスマン帝国は1393年にバルカン諸国に攻撃を行い、ブルガリアもオスマン軍の標的とされる。3か月に渡るオスマン軍の包囲の末、1393年7月17日にタルノヴォが陥落する(タルノヴォの包囲(英語版))。タルノヴォを脱したイヴァン・シシュマンはニコポリスに逃れ、やむなくオスマンと和約を結んで領土の保持を認められる。
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