ヘシグテン部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:40 UTC 版)
1368年、南京で建国された明朝の攻撃を受けて大元ウルスは大都を失陥し、長城以南の領地を手放しモンゴル高原に回帰することとなった。北元時代においてもケシク制度は存続していたと見られるが、記録が少なく詳細は不明である。 15世紀末、バト・モンケがダヤン・ハーンとして即位すると内乱を続けていたモンゴルの諸部を再統一し、大ハーンはチャハル部を率いることとなった。チャハル部には「克失旦(ケシクテン)」と呼称される下位集団があったことが早くから明朝の史料に記録されており、これが元代のケシクにつながるものと見られる。 しかし北元時代のケシクテンはやがて親衛隊ではなく独立した遊牧集団となっていった。チャハル部はまた「八オトク・チャハル」とも称されており、八つの遊牧集団から構成されていたが、その内の一つがヘシグテン(ケシクテン)・オトクであった。ヘシグテン・オトクはダヤン・ハーンによって息子のオチル・ボラトに分封されたという。 17世紀、清朝が興隆するとチャハル部のリンダン・ハーンはこれに対抗したが失敗し、最終的にチャハル部は清朝に投降した。清朝はヘシグテン部をジョーオダ盟ヘシグテン旗に編制し、これが現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヘシグテン旗の前身となった。
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