後世の伝承にすぎないもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
寿福寺のやぐら群や頼朝の墓の東隣の谷にある北条政子の墓(後述)、源実朝の墓(後述)、大江広元の墓、島津忠久の墓などとされるものは全て江戸時代に作られた伝承である。島津忠久の墓とするものは安永8年(1779年)に薩摩藩がそう称してやぐら前面の造作を行ったもので、それ以前の『新編鎌倉志』に記載はなく、後の『新編相模風土記稿』では「案ずるに忠久の墓、此の地に在ること疑ふべし。…此に頼朝の墳墓あるにより新たに遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ」と書く。隣の大江広元の墓というのは、子孫の長州藩毛利氏が薩摩藩の島津氏に対抗して江戸時代の文政6年(1823年)にこれを大江広元の墓としたものである。その6年後の『鎌倉攬勝考』は「土人等大江広元の墓なりというは訝(いぶか)しき説なり」と否定している。 「唐糸やぐら」の唐糸伝説や、護良親王の土牢(現鎌倉宮)の伝承は江戸時代より前に成立はしているが、室町時代にはやぐら本来の意味は忘れ去られて「牢」だと思われていたことを記すに過ぎない。扇ヶ谷浄光明寺西方山裾に相馬師常墓と伝えるやぐらなど13穴のやぐら群があるが、相馬師常の没年は1205年(元久2年)であり年代的にも合わない。
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