後世のキリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世
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「コンスタンティヌス1世」の記事における「後世のキリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世」の解説
コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教徒たちにとって最も重要な皇帝と1人と見なされ、キリスト教世界において長きにわたって権威の源泉であり続けた。彼にまつわる虚実織り交ざった歴史的記憶は政治・社会・宗教において大きな影響を与えた。 ローマカトリック教会においてその影響を示すものが『コンスタンティヌスの寄進状(Constitutum Constantini)』と呼ばれる偽造文書である。『コンスタンティヌスの寄進状』によれば、コンスタンティヌス1世は使徒ペテロ、パウロ、そしてローマ教皇シルウェステル1世によってキリスト教へ改宗したという。そして、天上の皇帝が座を占めるべき場所(ローマ)に俗界の皇帝が身を置くべきではないことからコンスタンティノープルへの遷都を行い、教皇シルウェステル1世に「都市ローマと、イタリアおよび西方のすべての地区、都市、属州」の支配権を授与した。さらにコンスタンティヌス1世はローマ教皇庁が東方の4つの総大司教座(コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレム)に対する首位権を持つことや、皇帝が教皇の騎乗を補助する義務を負うこと、皇帝が教皇に教皇冠(Tiara)を含む各種の権標を授けたこと、教皇が皇帝と同格であることなどを定めたとされる。 8世紀に入る頃になるとビザンツ帝国(東ローマ帝国)はローマを含むイタリアでの影響力を喪失しつつあり、その庇護を当てにできなくなったローマ教皇庁は帝国と距離を置き自立の道を探るようになっていた。この文章がこの頃にローマ教皇の周囲で作成された偽造文書であることに疑いはなく、それが作成された動機についてはっきりわかることもない。しかし、この文書は11世紀の叙任権闘争以降、ローマ教皇庁側の政治的地位の根拠として重要な役割を果たすことになる。 また、800年に「ローマ皇帝」に即位し西ローマ帝国を「復活」させたフランク王国(カロリング朝)の王カール1世(大帝)はローマ教皇ハドリアヌス1世によってコンスタンティヌス1世に擬せられており、カール1世自身もコンスタンティヌス1世の印璽を模倣したものを用いていた。また、コンスタンティヌス1世の宮殿アウラ・パラティナを、アーヘンの宮殿を建造する際の参考にしたとも言われる。 キリスト教世界におけるコンスタンティヌス1世の権威は、彼が建設した都市コンスタンティノープルを都としたビザンツ帝国においても同様に高かった。それを端的に証明するのは皇帝の名前である。ビザンツ帝国の60名あまりの皇帝のうち「コンスタンティノス」(コンスタンティヌス)を名前とした皇帝は実に11名に達する。初のキリスト教徒皇帝として「地上における主キリストの唯一の代理者」となったコンスタンティヌス1世は、ビザンツ皇帝にとってその出発点であるとも考えられ、コンスタンティヌス1世に関するあらゆる事物は「聖なる」という形容詞を付与された。 コンスタンティヌス1世の残像は東の皇帝と西の皇帝の間の権威を巡る論争でもたびたび議題に上り続けた。968年に(神聖ローマ)皇帝オットー1世の使者としてコンスタンティノープルを訪問したリウトプランドは「フランク人」の皇帝号を承認しようとしないビザンツ宮廷との論争においてコンスタンティヌス1世がローマ教皇庁や「フランク人」に与えた「贈り物」の数々に言及し、またコンスタンティヌス1世の名前を与えられた都市に依拠しつつ、祖先の言葉(ラテン語)と衣服を変更した「ギリシア人の皇帝」がいかにその後継者として相応しくないかを強調し、ビザンツ皇帝に対する西方の皇帝の優位を主張した。そしてリウトプランドとも面会した、コンスタンティヌス1世と同じ名前を持つ当時のビザンツ皇帝コンスタンティノス7世は息子ロマノス2世に、当時議題にあがっていた「フランク人」諸侯との縁組の可能性について、「コンスタンティヌス大帝の遺訓」に基づいてローマ人の皇帝が蛮族と通婚してはならないとした。
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