後世に与えた影響と遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 21:52 UTC 版)
「マーキュリー計画」の記事における「後世に与えた影響と遺産」の解説
計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル (インフレ 率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった。 マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて、ジョン・F・ケネディが大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた。フリーダム7の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとしてマーキュリー計画を支持することを選んだ。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した。飛行した6人のパイロットは勲章を受け パレードで行進し、また2名はアメリカ合衆国議会合同会議に招かれ演説した。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし、メディアによってマーキュリー13と命名された。このような努力にも関わらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった。 1964年、ケープ・カナベラルの第14発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された。1962年、アメリカ合衆国郵便公社はMA6の飛行を称え、マーキュリー記念切手を発行した。有人宇宙飛行を描いた切手が発行されるのはこれが初めてのことであった。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された。2011年5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行フリーダム7の50周年の記念切手を発行した。映像表現においては、同計画は1979年のトム・ウルフの小説『ライトスタッフ』を元に1983年に製作された同名の映画で描写されている。2011年2月25日、世界最大の技術専門家協会であるIEEE (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業であるボーイングに、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した。 14番発射施設のマーキュリー記念碑。1964年
※この「後世に与えた影響と遺産」の解説は、「マーキュリー計画」の解説の一部です。
「後世に与えた影響と遺産」を含む「マーキュリー計画」の記事については、「マーキュリー計画」の概要を参照ください。
- 後世に与えた影響と遺産のページへのリンク