宮殿を建造とは? わかりやすく解説

宮殿を建造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)

張駿」の記事における「宮殿を建造」の解説

この時期姑臧城の南に謙光殿を起工し五色紋様施し金玉装飾施し技巧限りを尽くした。謙光殿の四面にはそれぞれ一殿を起て、東は宜陽青殿と称して春3ヶ月間居住し、南は陽赤殿と称して夏3ヶ月間居住し、西は正徳白殿と称して秋3ヶ月居住し、北は玄武黒殿と称して冬3ヶ月居住した礼服器物はみな各方面の色と合わせた。殿の傍らにはみな内官公署を置き、みな各方面の色と同一彩色とした。ただ、治世晩年になると、気の向くままに居住するようになり、季節毎に分けて住まう事がなくなったという。 張駿には秦州雍州併呑する志があり、参軍麹護を建康派遣して「勒(石勒)・雄(李雄)は既に死し、虎(石虎)・期(李期)は反逆して後を継いでおり、庶民が主から離反する兆しとなっております。時が経るにつれ、老人亡くなっていき、後から生まれる者は陛下御恩知りません。慕恋の心は日に日に衰え、やがて忘れ去られ行きましょう。どうか、司空鑒(郗鑒)・征西将軍亮(庾亮)らに命じ水軍を江・沔へ派遣して我ら呼応してくださいますよう」と上表した。前後して張駿幾度も使者派遣していたが、その多く後趙捕らえられ到達できなかった。後に、張駿はまた護羌参軍陳寓・従事徐虓・馭らを建康派遣した339年10月、右長史任処領国子祭酒に任じ辟雍明堂建立させ、礼を行わせた。11月世子張重華涼州事務行わせるようになった340年10月別駕馬詵を派遣して後趙入貢させた。その上表文傲慢であったので、石虎激怒して馬詵を斬ろうとしたが、東晋併呑目論んでいたので、背後突かれる事を恐れて取りやめた。 343年張駿は建西の石県において耕作行った9月石県を金沢県と改め狄道県分けて涼州に属させ、狄道県をもって武始郡を立てた12月、西曹掾に命じて朝廷内外事績収集させ、索綏に『涼春秋』を著作させた。

※この「宮殿を建造」の解説は、「張駿」の解説の一部です。
「宮殿を建造」を含む「張駿」の記事については、「張駿」の概要を参照ください。

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