オットー・ハインリヒ (プファルツ選帝侯)とは? わかりやすく解説

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オットー・ハインリヒ (プファルツ選帝侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 23:33 UTC 版)

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オットー・ハインリヒ
Otto Heinrich
プファルツ選帝侯
オットー・ハインリヒの肖像画。バルテル・ベーハム(Barthel Beham)による1535年の作品。
在位 1556年 - 1559年
別号 プファルツ=ノイブルク公
在位 1505年 - 1559年

出生 (1502-04-10) 1502年4月10日
死去 (1559-02-12) 1559年2月12日(56歳没)
配偶者 ズザンナ・フォン・バイエルン
家名 プファルツ家
父親 ループレヒト・フォン・デア・プファルツ
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリックルター派
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オットー・ハインリヒ(Otto Heinrich)またはオットハインリヒ(Ottheinrich, 1502年4月10日 - 1559年2月12日)は、プファルツ=ノイブルク公(在位:1505年 - 1559年)、後にプファルツ選帝侯(在位:1556年 - 1559年)。プファルツ選帝侯フィリップの三男ループレヒトと、バイエルン=ランツフート公ゲオルクの娘エリーザベトの子。

生涯

ゲオルクに男子継承者がなかったことから、共にヴィッテルスバッハ家の同族であるバイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世とプファルツ家の間で所領の継承を巡って紛糾し、ランツフート継承戦争(1503年 - 1505年)となった。結果、オットー・ハインリヒと弟フィリップは新設されたプファルツ=ノイブルク公の称号とともに、現バイエルン州オーバーフランケンからオーバープファルツにかけて散在する所領を与えられ、父方の祖父フィリップと叔父フリードリヒ2世が摂政となった。フリードリヒ2世が1556年に死去すると、オットー・ハインリヒはプファルツ選帝侯を継承した。

オットー・ハインリヒは、かつてフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝カール5世に屈服して断念した宗教改革を再びプファルツにもたらした。また、ノイブルク・アン・デア・ドナウに宮殿を建造した。

バイエルン公アルブレヒト4世の娘ズザンナと結婚したが、嗣子がなかったため、プファルツ選帝侯はプファルツ系支流のプファルツ=ジンメルン公フリードリヒ3世が、プファルツ=ノイブルク公は別の支流のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガングが継承した。

先代:
新設
プファルツ=ノイブルク公
1505年 - 1559年
次代:
ヴォルフガング
先代:
フリードリヒ2世
プファルツ選帝侯
1556年 - 1559年
次代:
フリードリヒ3世



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