宮殿の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 14:14 UTC 版)
「セント・デイヴィッズ主教宮殿」の記事における「宮殿の構築」の解説
主教の宮殿は、13世紀末から14世紀に施工された一連の「主教建築者 (builder bishops)」による仕事といわれる。 1284年に、イングランド王エドワード1世が巡礼でセント・デイヴィッズを訪れているが、1280-1293年にかけて主教を務めたトマス・ベック(英語版)がかつてその宮廷の一員であったことから訪問を前にして改築が行われた可能性が指摘されている。ベックは南西側の礼拝堂、広間、私邸、門の建設に携わった。 今日見られる場所の大半に関与したのは、主教ヘンリー・ガウアー(英語版)(在任1328-1347年)であった。大聖堂本体の大規模工事を実施したガウアーは、宮殿では東の妻側に車輪窓(円花窓、バラ窓)のある大広間、独特なアーケードをもつ胸壁(パラペット、parapet)、張り出し玄関(ポーチ、porch)を構築した。ガウアーの宮殿の主な遺構には大きく2か所の領域がある。住居のある東の領域(2か所のうち単純な区画)が最初に構築され、次いでより壮麗な南の領域が著名な巡礼者をもてなすために建てられた。 宗教改革の始まりは、司教宮殿の衰退の予兆でもあった。1536年、プロテスタントの主教ウィリアム・バーロウ (William Barlow) は、彼の5人の娘の持参金を支払うために屋根から鉛を剥ぎ取ったといわれる。彼はここから多大な金銭を支払い、16世紀の勘定書は、それを取り替える費用を補うため主教職の収入の12年以上を必要としたことを伝えており、建物は破損状態に陥った。主教はセント・デイヴィッズにほとんど滞在せず、16世紀中頃には、主教の住居はカーマーゼンシャーのアベルグイリ(英語版)に移転した。1616年、主教リチャード・ミルボーン(英語版)は、建物の一部を解体する許可を申請した。1678年に別の解体の許可が求められた時には、宮殿は修繕の余地がないと考えられた。
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