宮殿と寺院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
このころ、フビライ・ハーンがラーマ僧のパスパ(パスパ文字を制作)を登用し、また、チベット仏教や禅宗を厚く保護し、そのほかの歴代の皇帝も仏教を厚く保護し、大都に寺院を次々と寄進した。その一つが、現在でも残る北京・妙王寺の白塔であり、この塔はもともと元帝国の時代に創建された物であった。また、東岳廟もこの時代に建設された。 また、宮殿も壮観なものであった。この宮殿は中国風に「宮城」と呼ばれ、金の時代の皇帝の離宮の跡に建造された。宮城内には「大明殿」と呼ばれる中国様式の大謁見殿や、「延春閣」と呼ばれる内廷の高層建築(閣)などをはじめとする建物で埋め尽くされており、それらは全て皇帝の象徴である黄色い瓦で葺かれていた。これらの建物はすべて中国風で、城壁に囲まれた宮城内部は石畳ですべて敷かれ、正門の崇天門から主要な建物はすべて、一直線上に並べられた[疑問点 – ノート]。 外城の正殿である大明殿の南側には、文武百官がハーンに礼拝するための広い段(丹陛)が設けられ、周礼などに基づいた儀式が執り行われた。大明殿の背後には、現在の紫禁城の小和殿、保和殿の役割を果たした建造物群があった。また、内廷部分は皇帝の私生活が行われたとともに、文官の上奏を行ったりする場所であり、皇帝の政務室の役割も兼ねた。正殿は「春延閣」と呼ばれる楼閣であり、中国の伝統的な「閣」の建築様式であり、その背後に皇帝の生活を行った場所があり、御苑の中にはモンゴル的なゲルも張られた。 内装には、モンゴルや西方的な絨毯やインテリアが用いられ、皇帝の部屋を飾った。
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