龍城へ遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
少し遡って341年1月、慕容皝は柳城の北にして龍山の西に位置する土地に福があるとして、唐国郡内史陽裕・唐柱らに命じて城を築かせると、これを龍城と名付けた。この城に宮門・宗廟・宮殿を構えると、藉田(宗廟に供える穀物を天子みずから耕作した儀式)を行い、柳城県を龍城県と改めた。 7月、東晋から冊封されるに及んで、龍城に新たな宮殿を建造させた。 10月、棘城から龍城に遷都し、領内に大赦を下した。 同月、慕容皝は子の慕容恪を度遼将軍に任じて平郭を鎮守させた。慕容翰・慕容仁の統治以降、後の諸将軍は誰もこれに及ぶ事が出来なかったが、慕容恪が着任すると、彼は古くからの民と新たな流民をいずれも慰撫し、また幾度も高句麗軍を破ったので、高句麗は大いに恐れて敢えて入寇しようとはしなくなった。 12月、慕容皝は東晋へ朝貢し、成帝へ自らの一族の娘を娶るよう勧めた。 342年6月、後趙は兵を率いて前燕を攻めたが、慕容皝はこれを大破した。
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