パルティアの滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
この勝利にもかかわらずパルティアはローマとの戦争によって弱体化し、サーサーン朝の勃興によって間もなく滅亡することになる。滅亡の経緯についても、はっきりとしたことはほとんどわかっていない。この頃、ペルシス(現在のイラン、ファールス州)がアルサケス朝の支配を脱し、エスタフルから周辺の領域を征服し始めていた。後世の伝承によれば、サーサーンの子とされるパーパクがペルシスで支配権を広げ、その後アルタバノス4世に対して自分の王国と占領地の後継者として息子のシャープールを承認するように要求したがアルタバノス4世はこれを拒否した。このためパーパクとアルタバノス4世との間で戦いが発生したが、ほどなくパーパクは死亡し、シャープールもすぐに死亡したため、パーパクの次子アルダシール1世が王となった。 アルタバノス4世はこれを鎮圧しようと試みたが、220年にはメディア、アディアベネ、ケルク・スルク(キルクーク)でも反乱が発生し、反乱者たちはアルダシール1世と手を結んだ。224年4月28日、アルタバノス4世はイスファハーンに近いホルミズダガーンの戦い(英語版)でアルダシール1世に敗れて戦死した。こうしてアルサケス朝は崩壊し、アルダシール1世が新たな王朝、サーサーン朝を打ち立てた。ただし、もう一人のパルティア王ヴォロガセス6世は228年までセレウキアでコインを発行し続けていたことが知られている。
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