パルティアへ侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 16:56 UTC 版)
36年、ローマ帝国シリア属州総督ルキウス・ウィテッリウスの手先に扇動されてアラン(アラニ)はコーカサス山脈の峠を通過し、イベリア(ヒベリア)人の妨害を受けることもなく、パルティア領内に集結した。 72年頃、アラン(アラニ)は自領であるマイオティス湖(アゾフ海)周辺から進軍し、当時独立していたヒルカニアの王と同盟を結び、コーカサス山脈の「鉄の門」経由で南下し、メディア・アトロパテネに入った。パルティア王ボロガセス1世が弟のパコルスをメディア・アトロパテネ王に封じていたが、僻地に追いやっていたので、アランは不在中のパコルスの婦人部屋を襲った。アランは進軍を続け、西進してアルメニア王ティリダテスを破り、投げ縄で捕えようとしたが、戦利品を大量に与えられたので満足して東に向きを変えた。 136年頃、アラン(アラニ)はイベリア(ヒベリア)のファラスマネスに説得されて東北からアルバニアとメディア・アトロパテネに侵入し、アルメニアとカッパドキアにまで進んだ。ムシハ・ズハの記述によれば、アラン軍がゴルディエネに侵入したので、アディアベネの総督ラフバフトと将軍アルシャクはボロガセス3世がクテシフォンで徴兵した歩兵2万を率いてアラン軍に立ち向かった。パルティア軍はキゾという名の首領の計略にかかり、谷に閉じ込められた。ラフバフトの働きによりパルティア軍は脱出することができたが、ラフバフト自身は戦死してしまう。パルティア軍はやむなく退却し、メソポタミアへの道はアラン軍に明け渡された。しかし、ちょうどアラン本国が他の部族によって侵入を受けたので、アラン軍はその対応のため東方へ戻っていった。
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