パルティアとローマの緩衝地帯として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「パルティアとローマの緩衝地帯として」の解説
詳細は「アルサケス朝 (アルメニア)(英語版)」および「アルメニア属州」を参照 アルメニアの没落後、勢力を回復したパルティアはローマと軍事力で拮抗するようになった。そして、アルメニアはパルミラとともに、パルティア=ローマ両国の緩衝地帯としてのみ存在を許された。その後数十年の間、アルメニアの君主は両大国が交互に指名する名目的な存在となった。そして紀元前1年、ティグラネス4世を最後にアルタクシアス朝は滅びた。 その後もパルティアとローマ帝国は衝突を繰り返したが、そのうち第四次パルティア戦争(英語版)に際して紀元63年に結ばれたランデイア条約(フランス語版)により、「アルメニアの王位はパルティアのアルサケス家が継承し、領土は属州としてローマのものとする」という折衷案が取り決められた。こうして66年、パルティア王ヴォロガセス1世の弟ティリダテス(英語版)を初代国王として、ペルシア人によるアルサケス朝アルメニアが誕生した。
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