初代国王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 06:39 UTC 版)
「レオポルド1世 (ベルギー王)」の記事における「初代国王として」の解説
新国家であるベルギー憲法(英語版)は、君主政のオランダ、共和政のフランスの影響を強く受けており、国王の権力が制限されていた。レオポルド1世は憲法に誓約したものの不満を持っており、非公式の「組閣担当者」を任命し、議会での調整や国王への報告を経て、議会の承認を受けて正式に就任される形式をとらせ、政治に介入した。レオポルド1世は自由主義に対する反動だけでなく、国民の共和政精神を尊重しようとし、大国の狭間で国内の統一を保ち、ベルギーの独立を保とうとしていた。組閣担当者を任命する慣例は、現代にも続いている。 1832年8月9日、フランス国王ルイ・フィリップの娘ルイーズ=マリーと再婚した。大国間の緩衝地として、婚姻を通じても英普仏墺各国とバランスをとる必要があった。 建国当初のベルギーはフランス語を公用語として採用した。1833年に、常備軍のマニュアルがフランス語で作成されたが、国王個人が「フランス語を理解できない部下への寛容」等を求める文書を付け加えている。1834年には、北部のヘールでオランダ語教育の重要性を説き、その後、オランダ語文学の復興をも支援した。 1836年、兄ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世一家のロンドン訪問に際し、兄の次男アルブレヒト公子(英:アルバート)を、姉の娘ヴィクトリア王女に対面させると、ヴィクトリアは美男で教養のあるアルブレヒトを見初めた。この後、1837年にヴィクトリアは女王に即位し、最終的には彼女の意思で、1839年にアルブレヒト公子と結婚した。こうした経緯から、レオポルドは若き女王夫妻のよき相談役でもあった。 1839年に、戦費負担や領土はオランダ側に譲歩する形で決着し、ベルギーの独立が正式にオランダからも承認され、「永世中立」が名実ともに成立した。レオポルド1世は、周辺各国の情勢を踏まえ、北部フランデレン地域の独立を抑えながら中立に徹し、ベルギーの独立を保っていた。1830年代には、ワロンとフランデレンを結ぶ鉄道網を整備し、「多言語国家」を作ろうとしていた。
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