初代国防部長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 09:49 UTC 版)
1954年9月、中華人民共和国憲法制定による政府機構の再編が行われ、最高国家行政機関として国務院が発足し、その構成部門として国防部が設置された。彭徳懐は国務院副総理兼国防部長に就任し、国防委員会副主席も兼任した。また、党中央軍事委員会委員に選出され、中央軍事委員会の日常業務の総責任者に指名された。彭徳懐は国防部長として軍政の権限を持つとともに、党中央軍事委員会の実務責任者として中国人民解放軍各総部の上に立って実際の指導を行い、軍令の権限をも掌握した。翌1955年には元帥に列せられ、朱徳に次ぐ序列第2位の軍人となった。彭徳懐は1954年12月から1958年7月まで4回にわたり招集された党中央軍事委員会拡大会議を主宰し、1956年9月の第8回党大会では中央軍事委員会を代表して軍事活動報告を行った。これらの会議で彭徳懐は、ソ連をモデルにした人民解放軍の精鋭化および近代化と国境付近での敵撃滅構想を唱えるが、旧来の毛沢東の持久戦論および遊撃戦論とは異なるものであった。1958年5月から7月にかけて開催された第4回党中央軍事委員会拡大会議では、彭徳懐は会議の主宰者の立場にあったが、実質的には毛沢東が議論をリードし、「ブルジョア軍事路線」やソ連追随の「教条主義」批判がなされた。また、軍の指導体制の改編が行われ、党中央軍事委員会が党中央の軍事工作部門として全軍を統一的に指導する統帥機関であること、中央軍事委員会主席(毛沢東)が全軍の統帥であることが確認され、中国人民解放軍各総部は中央軍事委員会に直接従属することが定められた。その結果、国防部長は三つある人民解放軍総部の責任者とほぼ同列となり、軍令の権限を失うことになった。
※この「初代国防部長」の解説は、「彭徳懐」の解説の一部です。
「初代国防部長」を含む「彭徳懐」の記事については、「彭徳懐」の概要を参照ください。
- 初代国防部長のページへのリンク