初代君主アル=マンスールの時代(1022-1045)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 14:09 UTC 版)
「アフタス朝」の記事における「初代君主アル=マンスールの時代(1022-1045)」の解説
アフタス朝については、史資料に乏しく不明な点が多い。後ウマイヤ朝末期、1008年頃に始まる大規模なコルドバの内乱により、アル=アンダルスの統制が効かず、各都市は自立を始める。バダホスの総督でサカーリバのサーブールはバダホスを統治し、北方キリスト教国に対する防衛のため周辺に住む8世紀以来のミクナーサ系ベルベル(アマーズィーグ)豪族、マスラマ家のアブド・アッラーフ・イブン・アル=アフタス(バダホスのアル=マンスール)を招いた。彼は政治にも深く関与し、サーブールの死後、マスラマ氏族が本格的にバダホスへ移住したようである。サーブールの息子たちとの戦いに加え、隣国でありタイファ諸国の中で抜きん出た国力を誇るアッバード朝セビリア王国との戦争も余儀なくされる。これは、バダホス王国がセビリア王国の拡張政策に対し先手を打って要衝ベージャを確保しようとした為であるとの説もある。 1027年頃にベージャを巡ってセビリア王国・カルモーナ王国連合軍との戦いを余儀なくされたバダホス王国軍は敗北し、バダホスのアル=マンスールの息子ムハンマドは捕虜となる。 1030年、交渉の甲斐あってムハンマドは解放される。1034年、セビリア王国が北方キリスト教国への遠征に向かう最中、バダホスのアル=マンスールの策によりセビリア王国軍は狭路で奇襲をかけられ大敗を喫する。これによりバダホス王国とセビリア王国との戦争は再開。数十年間に渡り両国の関係は非常に険悪なものとなった。 彼は1044年にメルトラ王国へ進軍したセビリア王国と対峙した。翌1045年、子ムハンマド(アル=ムザッファル)に王座を譲り死去した。直接の関係は証明されていないが、アフタス朝周辺の小王国はバダホスのアル=マンスール死後、次々とセビリア王国に呑まれていくこととなる。 バダホス王国初代君主アル=マンスールの時代にバダホス王国は国力の差に苦しみながらもセビリア王国相手に渡り合い、自国の君主が討ち取られることも無かった。他国に対する劣勢が明らかになるのは次代君主アル=ムザッファルの治世下においてである。 文芸面でも、彼は支配の正当性を保つために多くの詩人を雇いアラビア文学の発展に努めた。アフタス朝の文芸発展は息子ムハンマド(アル=ムザッファル)に受け継がれることとなる。
※この「初代君主アル=マンスールの時代(1022-1045)」の解説は、「アフタス朝」の解説の一部です。
「初代君主アル=マンスールの時代(1022-1045)」を含む「アフタス朝」の記事については、「アフタス朝」の概要を参照ください。
- 初代君主アル=マンスールの時代のページへのリンク