初代坊っちゃん列車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:09 UTC 版)
「坊っちゃん列車」の記事における「初代坊っちゃん列車」の解説
1888年(明治21年)10月28日に伊予鉄道が松山(現在の松山市) - 三津間を762mm軌間で開業した際に、バイエルン王国(当時)・ミュンヘンのクラウス社製B形蒸気機関車(甲1形)2両で運行を開始した。牽引される客貨車も鉄道開業に伴う資材調達全般を請け負った刺賀商会の手配でバイエルンから輸入されたが、これらはあまりの小型さゆえに分解されず、完成状態のまま木箱に詰めて納品されてきたという逸話が残る。 その後、路線開業で順次機関車・客貨車共に増備が進み、また1900年(明治33年)の南予鉄道と道後鉄道の合併もあって車両数は激増した。 1907年(明治40年)の時点での機関車各形式とその概要は以下の通り。 甲1形1 - 47.8t(改軌後8.5t) B型ウェルタンク機。1888年(1・2)および1891年(3・4)、クラウス社製。 甲2形5・61896年、クラウス社製。 甲3形7・89t(改軌後9.8t) B型ウェルタンク機1895年、クラウス社製。元道後鉄道1・2。 甲4形9・107t B型サイドタンク機。1896年、イギリス・フレッチャー・ジェニングス社(en:Fletcher, Jennings & Co.)製。元南予鉄道1・2。 甲5形11 - 149t(改軌後9.8t) B型ウェルタンク機。1901年(11・12)および1907年(13・14)、クラウス社製。 以上からも明らかな通り南予鉄道からの編入車である甲4形をのぞき全車クラウス社製の同系機で揃っていた。 このため、異端車である甲4形は稼働率が低かったことが伝えられており、1911年(明治44年)の車庫火災の際には車庫の奥に置かれていたことから車庫内からの移動も行えないまま焼失、その後も修理されずに放置されていた。 この2両の補充としては、新造車ではなく中古車の導入が図られた。同時期に近隣の別子鉱山鉄道で余剰を来していた、1形5 - 7が1912年6月に譲受されて甲6形15 - 17となったのである。これらも1894年(15・16)および1896年(17)、クラウス社製の甲1形同系機である。 もっともこれら3両は状態が悪かったとされ、1917年(大正6年)には置き換え対象であった甲4形2両と共に全車除籍され、スクラップとして売却されている。 また、この火災の際には客貨車も大きな被害を受けており、伊予鉄道ではハ31形を自社工場で製造するなどして焼失車の補充を行っている。 この後1931年(昭和6年)に高浜線の改軌・電化が実施されたが、その際にも貨物列車牽引は蒸気機関車のままで残されたことなどから全線改軌となり、客貨車を含めて順次改軌工事が実施されたが、機関車についてはこの時点では増備も廃車も特に行われないまま推移した。ただしこのころには道後鉄道編入車である甲3形の不調が目立つようになり、1940年(昭和15年)ごろに8が状態不良で除籍され、残る7も戦後早い時期に除籍されている。 戦後は混乱期の車両不足から、八幡製鐵所構内専用鉄道より1910年(大正9年)コッペル社製の156を1946年(昭和21年)に譲受し2代目甲6形15としたが、これは燃料の入手難等で郡中線が電化されたことで余剰となり、1952年(昭和27年)に廃車されたため短期間の使用に終わった。 こうして紆余曲折を経て運行されてきた伊予鉄道の蒸気機関車群であるが、1953年(昭和28年)に6の部品流用でDB-1形DB-1を試作、さらに新造でDB-2 - 8が投入されたことでその役割を終え、1954年(昭和29年)に運行を終了した。 このように、結果的には自社プロパーの甲1・2・5形が最後まで残存し、他社編入車や中古車は早期に淘汰された状態でディーゼル化の日を迎えたことになる。 一方、客車についてはその後も2軸車2両を接合して1両としたハ500形などが非電化の横河原・森松線用として残存したが、これも1965年の森松線廃止と1966年の横河原線全線電化完成で役割を終え、また貨車も1956年の貨物輸送廃止を経て1960年に全車廃車となっており、ここに1888年(明治21年)以来78年に渡った「坊っちゃん列車」の系譜は一旦幕を閉じることとなった。
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