初代台湾省主席
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1947年、台湾では二二八事件が発生し、時の台湾省行政長官である陳儀が免職され、4月22日には行政長官の職が廃止され台湾省政府に改組されることとなり、魏道明が初代の台湾省主席に任命された。 台湾に到着した魏道明は、省政府の下に民政・財政・建設・教育の4庁を設置し、13の省府委員を組織した。赴任後わずか7日後に発表された13人の省政府委員の中には、台湾籍の人間が過半数の7人を占め、その中には台湾一の博士である杜聡明や林献堂も含まれていたため、緊迫していた台湾の情勢はいくらか和らぐこととなった。5月16日、初の台湾省省政会議を行い、その会議の中で「これからは、最大限の努力をもって台湾の幸福を考えていくだけだ」と発言している。 魏道明は赴任後、ただちに戒厳令を取り消し、二二八事件後の農村捜査を終わらせ、交通管制を解くなど、台湾の情勢を回復させた。さらに戦後の台湾における再建の整理を加速させ、戦争で破壊された台南孔子廟の改修や、台湾と中国大陸との結びつきの強化を図った。 戦後の台湾の地位主権問題に関しては、当時の台湾独立運動やアメリカの一部の者と意見が異なっていた。外交的なバックグラウンドを持つ魏道明は1947年12月28日、記者会見を行い厳しい言葉で「台湾は古来から中国の固有の領土で、既に中国に回帰している。しかし、一部の陰謀を企む者たちが、台湾を中国から再分裂させようとしている。中国政府と中国の人民は決してこれを認めない。もし少数の者たちがあえて天下の大悪事を行おうとするのならば、600万人の台湾人民と4億の中国大陸の人民は、中国の領土を無傷に維持するために血を流す犠牲を厭わないだろう」と、台湾独立はでたらめな主張であると強く非難した。 1947年11月、台湾省は中華民国第1回立法委員選挙と国民大会代表選挙を行った。翌1948年には、台湾のスポーツ選手たちから台湾省代表チームを編成し、上海で行われた中華民国第6回全国運動会に参加させた。台湾の人々に選挙を通じて中国の政治に参加させたりするなどして、中国の人民の主権を行使させた。 魏道明は台湾省政府で1年7ヶ月の間任務に就き、1948年末に職を辞してアメリカに渡った。これは、この頃の中国大陸での情勢と関係している。蔣介石の腹心である陳誠が後任の台湾省主席となり、1949年1月5日に交代した。
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