ドイツ人のギリシャ王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 07:10 UTC 版)
オーストリアのザルツブルクで生まれた。父はヴィッテルスバッハ家のバイエルン国王ルートヴィヒ1世、母はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女テレーゼ。兄にバイエルン国王マクシミリアン2世、弟にバイエルン摂政ルイトポルトがいる。 ギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国からの独立を達成したギリシャの政治体制について、欧州列強は君主国とすることが適当であるとの結論に達した。初代国王としては、東ローマ皇帝の血を引き、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。 1832年、オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都が置かれていたペロポネソス半島のナフプリオに上陸した。彼の周囲にはバイエルンの宮廷から連れてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政については英仏露三国およびロスチャイルド家が保証することになったが、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。国王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教もギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けた。ただし、ギリシャの文化財流出を防ぐための「記念物法」は1834年に施行されている。 1837年にオソンはドイツを訪問し、オルデンブルク大公パウル・フリードリヒ・アウグストの娘アマーリエ(ギリシア名アマリア)と結婚した。結婚式はギリシャでは開かれなかった。新しく誕生した王妃は政治に干渉し、国民の君主制に対する支持はさらに失われていった。ギリシャの民心を掴もうとして、1841年にクレタ島を併合しようとした動きは列強によって制せられた。
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