ドイツ人の妻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 06:02 UTC 版)
「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」の記事における「ドイツ人の妻」の解説
アンナはウラジーミルより4年前に世を去った。メルゼブルクのティトマーは、同時代資料に基づいて、ポーランドのボレスワフ1世がキエフを1018年に略奪したとき、ウラジーミルの寡婦を捕えたと記録している。歴史家はこの女性が誰を指すのか長年にわたり手がかりを得られずにいた。亡命ロシア人歴史家のニコラス・バウムガルテンは、"Genealogia Welforum"と "Historia Welforum Weingartensis" の中にある議論の多い箇所に注目した。曰く、「『オットー大帝の娘』 "filia Ottonis Magni imperatoris" によるエニンゲン伯クーノ(後にシュヴァーベン大公コンラート1世)の娘が『ルーシの王』 "rex Rugorum"と結婚した」。バウムガルテンはこれを解釈して、ウラジーミルの後妻はオットー1世の孫娘であったと推論した。 この結婚からは、娘が一人だけ生まれたと考えられている。名はドブロネガないしマリアといい、1038年から1042年の間にポーランド公カジミェシュ1世に嫁いだ。父ウラジーミルはこの婚姻の25年前に死去していた。この結婚から、少なくとも5人の子供が生まれ、2人が王となった(ボレスワフ2世とヴワディスワフ1世ヘルマン)。
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