ドイツ人としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 17:20 UTC 版)
「フェルッチョ・ブゾーニ」の記事における「ドイツ人としての活動」の解説
ブゾーニは短期間グラーツで学んだ後、1886年にライプツィヒに赴き、その後いくつかの教職に就く。まず1888年にヘルシンキで教鞭を執り、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランド (Gerda Sjöstrand) に出会っている。1890年にはモスクワ、翌年から1894年までアメリカ合衆国でも教鞭を執った。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなしており、有名なバッハの《シャコンヌ》の編曲も、この頃に手懸けたようである。 1894年にベルリンに居を構え、同地でピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。ウィーン国立音楽院やヴァイマル、バーゼルでは、数々のマスタークラスで教鞭を執り、クラウディオ・アラウやエゴン・ペトリらの門弟を育てた。 《ピアノ協奏曲》は完成できなかったオペラ「アラジン」(Aladdin)から派生した作品であったが、この協奏曲完成後はロマン主義からの脱却と新古典主義への偏愛を見せるようになる。このころから「ピアノ演奏法」の著作に取り掛かる。
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