ドイツ人の避難と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:08 UTC 版)
「ヴァルテラント帝国大管区」の記事における「ドイツ人の避難と追放」の解説
大管区指導部は、1945年1月の赤軍冬季攻勢の規模と自軍の勢力の判断を全く誤ったため、ドイツ人のヴァルテラントからの避難は非常に遅く、混乱したものとなった。1月16日にソ連軍部隊が侵入した時点では、住民は平静を保つように呼びかけられ、1月19日のドイツ語の地方新聞では、同地は永遠にドイツのものである、と掲載された。大管区指導部は、翌日1月20日になってから国防軍、またポーゼン第21軍管区(ドイツ語版)(Wehrkreis XXI Posen)司令官、ヴァルター・ペッツェル(ドイツ語版)に迫られ、ヴァルテラントの住民を避難させることにした。同日中に大管区指導者グライザーは、党指導部の大部分をベルリンへ撤退させ、自身の代理クルト・シュマルツ(ドイツ語版)に大管区の指導を委託した。 ドイツ民間人のいわゆる避難は、続く数日中に、大部分は無秩序な脱出というかたちで行われたため、極寒の冬と急進撃する赤軍部隊で、民間人は多大な犠牲を出すことになった。残ったドイツ系住民、特に高齢者と脱出に間に合わなかった人々は、続く数か月の内に、新設のポーランド当局によって財産を没収、追放された。 1949年からヴァイクセル=ヴァルテ同郷人会(ドイツ語版)はヴァルテラントからの追放者の利益団体として活動し、同地域の文化遺産の保存とドイツとポーランドの相互理解のために尽力している。
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