ドイツ人傭兵部隊の動き
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「トレントンの戦い」の記事における「ドイツ人傭兵部隊の動き」の解説
ドイツ人傭兵部隊は12月14日にトレントンに到着した。トレントンにはキング通り(現在のウォーレン通り)とクィーン通り(現在のブロード通り)という2つの主要な通りがあり、約100軒の家屋があった。ラールの上官カール・フォン・ドノープは12月22日に南のマウントホーリーに向けて進軍し、ニュージャージーにおける抵抗勢力に対応し、23日にはアイアンワークスヒルの戦いでニュージャージー民兵隊を駆逐していた。 ドノープはラールを嫌っており、トレントンでの指揮をラールに任せることを躊躇した。ラールは騒々しく、酒飲みであり、現地の言葉に通じていないと分かっていたが、戦闘経験の豊富な56歳の軍人でもあった。ラールはイギリス軍指揮官ジェイムズ・グラント将軍に援軍を要請したが却下されていた。グラントは大陸軍をひどく蔑視しており、援軍を送らなかった。トレントンに駐屯していたドイツ人傭兵部隊の面々は、その指揮官が経験豊富であったにも拘わらず、人間性を好いてはいなかった。彼等はラールがあまりに立派すぎて成功する軍隊指揮官としては冷酷になれないと考えていた。ラールの士官達は「彼の人生に対する愛はあまりに大きくて、まず自分のことを考え、その次が他人のことになる。そのためにしっかりとした決断をすることができない。」と言ってこぼしていた。ラールは懸命に働くことを避け、部隊の慰安についてはほとんど関心を示さなかった。 トレントンの町は、アメリカの開拓地の常と同じく防壁も防御工作物も無かった。ドイツ人傭兵部隊士官の中にはラールに町に防御を施すよう進言した者がおり、工兵技師の2人は町の上流側に堡塁を建設し、川に沿って防御工作を行うべきことを忠告した。技師達は図面を描き上げるまでしたが、ラールが同意しなかった。ラールが再度町の防御を施すよう促されたとき、ラールは「くだらない!来たらいいさ。...銃剣で十分だ」と答えたという。 クリスマスが近付いてくると、ロイヤリストが町に来て大陸軍が何かを企んでいると報告した。何人かの大陸軍脱走兵ですら、川を渡るための食料が準備されているとドイツ人傭兵部隊に告げてもいた。ラールはこれらの話を無意味なものとして表だっては無視したが、個人的には上官に宛てた手紙で、目前に迫った敵の攻撃を心配していると表明していた。ラールはドノープに宛てて、「いつでも攻撃される可能性がある」と記した。ラールはトレントンが「防御不能」であると言い、トレントンに近くアメリカ軍の攻撃から道路を確保しておくことのできるメイドンヘッドにイギリス軍の駐屯地を置くことを求めた。その要請は却下された。大陸軍がドイツ人傭兵部隊の供給線を邪魔するようになると、ラールの士官達も同じ恐れを共有した。ある者は「ここへ来て以来一晩も平和に眠ったことがない」と記した。12月22日、1人のスパイがグラントに、ワシントンが作戦会議を招集したと報告し、グラントはラールに「守りに注意せよ」と告げた。 1,500名いたドイツ人傭兵部隊は3個連隊で分けられており、クニプハウゼン、ロスバーグおよびラールが各連隊を指揮した。その夜、天候が悪かったのでいかなる偵察も送り出さなかった。
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