ドイツ人の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 05:40 UTC 版)
12世紀のバルト地方はキリスト教化されていない「異教の地」であり、キリスト教世界はバルト地方での布教を試みるが活動は難航する。1199年に教皇インノケンティウス3世はリヴォニア(現在のエストニア南部からラトビアにかけて広がる歴史的地域)に十字軍を派遣し、翌1200年にユクスキュル司教アルベルトが率いる500人の兵士がリヴォニアに進軍した。アルベルトの進言によって1202年に設立されたリヴォニア帯剣騎士団は武力による改宗を行い、1207年までにリヴォニアのキリスト教化が大きく進展した。リヴォニアを制圧した帯剣騎士団はエストニア北部への進出を試みるが、ロシア諸侯の支援を受けたキヘルコントは頑強に抵抗し、エストニア南部ではサカラの首長レンピトゥ(レムビト)が抵抗を続けていた。1217年にレンピトゥは戦死し、エストニア北部の南半分が帯剣騎士団の支配下に入るが、ロシア諸侯の援助を受ける北側の地域はキリスト教勢力の進出を拒み続けていた。エストニア人の抵抗に直面した帯剣騎士団は1218年にデンマーク国王ヴァルデマー2世に支援を求め、1219年に60,000のデンマーク軍がバルト海東岸に上陸し、1220年冬までに帯剣騎士団はエストニア本土を制圧する。1219年にデンマークによって「トーンペア」と呼ばれるエストニア人の集落に城塞と町が建設され、デンマークが建設した城塞はエストニア語で「デーン人の町、要塞」を意味する「ダーニーリーン」と呼ばれ、後のタリンの起源となる。1223年にサーレマー島でデンマークと帯剣騎士団に対する反乱が起きるが、反乱は1227年までに鎮圧される。 1215年に開催された第4回ラテラン公会議でリヴォニア司教区は教皇の特別保護下に置かれた「テッラ・マリアナ(「聖母マリアの地」の意)」に制定され、リヴォニアの先住民に苛烈な支配を敷く帯剣騎士団を問題視する教皇庁は改宗した先住民の実情を調査し、騎士団の搾取を咎めた。1236年にリトアニア人との戦闘に敗れて壊滅した帯剣騎士団はドイツ騎士団に統合され、帯剣騎士団の征服地を含むリヴォニアのドイツ騎士団領は「リヴォニア騎士団領」と呼ばれるようになる。改宗が進んだ地域ではドイツ人の入植が進み、多くのエストニア人はドイツ人領主の支配下に入らなければならなかった。1285年にレヴァル(タリン)がハンザ同盟に加入し、交易で富を蓄え、自治権を得たレヴァルではドイツ人が強い影響力を有していた。レヴァル、ペルナウ、ナルヴァ、ドルパト(タルトゥ)などのハンザ同盟に加入していたエストニアのドイツ化された大都市は繁栄を謳歌していたが、土着のエストニア人は悲惨な状況に置かれていた。19世紀のエストニア民族革命で主導的な役割を果たしたカール・ロベルト・ヤコプソン(英語版)は、13世紀から19世紀にいたるドイツ人支配時代をエストニア人の「闇の時代」と呼んだ。 デンマーク統治下のエストニアではドイツ人騎士への授封が盛んに行われ、王権の弱体化によってリヴォニア騎士団の進出を招いた。貴族が増加したデンマーク領エストニアでは封建制度が急速に発達し、荘園の拡大が進展する。1340年代にデンマークは北部エストニアから撤退し、1341年にレヴァル、ヴェーゼンベルク、ナルヴァをリヴォニア騎士団に売却した。撤退の理由には土地を支配するデーン人が少ないこと、在地の人間が結束して反乱勢力を形成していること、多額の経費を要することが挙げられている。1343年から1345年にかけてデンマーク領エストニアではセント・ジョージ夜の反乱が起き、本国から離れたリヴォニアの統治に手を焼いたデンマークは1346年にリヴォニアをドイツ騎士団に売却し、翌1347年にタリンを含むリヴォニアはドイツ騎士団の支部であるリヴォニア騎士団領に編入される。騎士団領有下のエストニア人の居住地は騎士団領と司教領に分割された。
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