ドイツ人捕虜への待遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:39 UTC 版)
「第一次世界大戦下の日本」の記事における「ドイツ人捕虜への待遇」の解説
日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ帝国軍捕虜は丁重に扱った。青島で捕獲した捕虜約4700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。 ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ帝国軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元捕虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。 545名が移送された似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げたり、広島市の産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売も行ったりした他、捕虜のサッカーチームが地元の師範学校チームと試合を通じて技術を教えるということもあった。この選手の一人はドイツに帰国後、サッカークラブ「SVヴァンヴァイル」を創設し、後にギド・ブッフバルトを輩出する礎を築いている。
※この「ドイツ人捕虜への待遇」の解説は、「第一次世界大戦下の日本」の解説の一部です。
「ドイツ人捕虜への待遇」を含む「第一次世界大戦下の日本」の記事については、「第一次世界大戦下の日本」の概要を参照ください。
- ドイツ人捕虜への待遇のページへのリンク