出生と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「出生と結婚」の解説
マリー=ルイーズはサヴォイア家の分枝カリニャーノ公家の当主ルイージ・ヴィットーリオと、そのドイツ人の妻クリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルクの間の第6子・五女だった。父は当時のサヴォイア本家当主・サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の甥(異母妹の子)だった。母はカルロ・エマヌエーレ3世の最初の妻ポリクセナ王妃の妹だった。さらに母の別の姉カロリーネが、フランス王族のブルボン公ルイ・アンリに嫁いでいた関係で、フランス王室とも縁戚関係があった。マリー=ルイーズの幼少期について詳しいことは不明である。 結婚適齢期になると、フランス王室の一員だったランバル公ルイ・アレクサンドルとの縁組が成立した。ランバル公は、太陽王ルイ14世と寵姫モンテスパン夫人の間の準正された婚外子トゥールーズ伯の孫である。フランス王ルイ15世は、花婿花嫁とも王室の分家出身で身分の釣り合いの取れた結婚が実現することに満足した。カルロ・エマヌエーレ3世も、サヴォイア家とフランス王家との縁組によるフランスとの同盟関係を長く欲しており、この政策はその後、ルイ15世とカルロ・エマヌエーレ両者の孫たちの間の複数の縁組によって強化されていく。 1767年1月17日、トリノ王宮にてカルロ・エマヌエーレ3世臨席のもと代理結婚式(英語版)と披露宴が挙行された。同月24日、新婦はフランスとサヴォイア公領の国境であるル・ポン=ド=ボーヴォワザン(英語版)の橋でフランス側に引き渡され、イタリア人の家臣たちと別れて新しいフランス人の従者に連れられて、新郎とその父パンティエーヴル公爵の待つナンジ城(英語版)へ向かい、この城で1月31日正式な婚礼を挙げた。2月に入ってマリー=ルイーズは初めてヴェルサイユ宮殿入りし、夫の叔母であるラ・マルシュ伯爵夫人の紹介で国王・王族に初めて謁見したが、このときヴェルサイユ宮廷の人々はマリー=ルイーズに好印象を抱いたという。新婚夫婦は美男美女で、互いの容姿に魅了されたため最初のうちは仲睦まじかった。しかしランバル公は結婚して1か月後には2人の女優との不貞を働き、マリー=ルイーズは深く傷ついた。落ち込んだ彼女を慰めたのは舅のパンティエーヴル公で、義理の父娘はこれを機に親密になった。 ランバル公は女遊びが祟って性病が悪化し、妻や妹の看病もむなしく、1768年5月6日ルーヴシエンヌ城(英語版)にて20歳の若さで亡くなった。19歳で寡婦となったマリー=ルイーズは夫から相当額の遺産を譲られ、かなりの資産家となった。彼女は修道院に入ろうとしたが舅のパンティエーヴル公が反対し、自分の娘代わりに傍にいてくれるよう説得した。マリー=ルイーズは一人息子を亡くして落胆する舅を励まして、一緒に領地のランブイエでの大規模な慈善活動に没頭し、そのため公爵は「貧者の王」と、ランバル公妃は「パンティエーヴルの天使」と呼ばれて称賛された。公妃は舅の所有するパリ市街のオテル・ド・トゥールーズ(英語版)と郊外のランブイエ城(英語版)を行き来する生活を送った。 同じ1768年の7月に王妃マリー・レクザンスカが死ぬと、王女のマダム・アデライードは父ルイ15世王とうら若い未亡人ランバル公妃を再婚させようと画策した。権力を欲する王女は、父の再婚相手は若く美しく、そして野心のない女性が望ましいと考えていた。父王が若い後妻に夢中になって国務を自分に投げ出すことを期待していたのである。ランバル公妃を王妃に仕立てるアデライードの計画はノアイユ家一族の支持も得た。しかしランバル公妃も舅のパンティエーヴル公も全く乗り気でなかった上に、計画は少しも前進しなかった。首席国務大臣ショワズール一派が、新しい王妃が権力を握ればルイ15世が黙認する自分たちの政治不正を糾弾する可能性があるのを恐れ、ルイ15世の再婚そのものに強く反対していたからである。
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出生と結婚
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「ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン」の記事における「出生と結婚」の解説
ジャン・フランソワ・ガブリエル・ド・ポラストロン伯爵(1722年 - 1794年)とその最初の妻ジャンヌ・シャルロット・エロー・ド・ヴォークレソン(1726年 - 1756年)の間の長女として、ルイ15世治下のパリで生まれた。貴族の子女は複数の洗礼名を授けられる習いであり、ヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと名付けられたが、最も後ろにあるガブリエルで呼ばれた。ポラストロン家は由緒ある名家だったが、その高貴な家柄にもかからわず、ガブリエルが誕生したころには借金まみれになっており、暮らしぶりは豪華さとは程遠いものだった。 父は南仏ラングドック州ヌエイユ(英語版)、ヴネルク(英語版)及びグレピアック(英語版)の領主だった。ガブリエルが非常に幼い頃、両親はパリでの生活が経済的に苦しくなり、所領のある田舎のヌエイユ城に引っ込んだ。3歳の時に母が亡くなると、父の姉のアンドロー伯爵夫人マリー・アンリエット・ド・ポラストロン(1716年頃 - 1792年)の手許で養育され、相応の年齢になると修道院の寄宿学校に入った。 1767年7月7日、17歳の時にジュール・ド・ポリニャック伯爵と結婚する。婚家ポリニャック家は実家ポラストロン家と同様、「毛並み」は良いが経済的には手元不如意であった。夫の主な収入源は所属する第1竜騎兵連隊(フランス語版)から給与として支給される4000リーヴルだった。
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出生と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 06:51 UTC 版)
ハンニバリアヌスはコンスタンティウス1世の息子フラウィウス・ダルマティウスの息子であり、またハンニバリアヌスには父と同じ名の兄がいる。妻は従姉妹のコンスタンティナ(コンスタンティヌス1世の娘で、ハンニバリアヌスの死後はガルス帝の妻となる)である。
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出生と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:53 UTC 版)
1919年に京城府(現・ソウル特別市)鍾路区の寺洞宮に生まれた。当時、父の李堈は日本の公族であり、公であった。多くの子を儲けたが、公を継いだ李鍵と雲峴宮家の養子になった李鍝以外の子は公族とされなかった。鐘路小学校に通った後、雲峴宮に暮らした。1936年に京畿高等女学校(→旧制中等教育学校の一覧#京畿道、現・京畿女子高等学校)を卒業し、慶應義塾大学卒の李昇圭と結婚して三男一女を儲けたが、李昇圭は朝鮮戦争中に北朝鮮に拉致された。 1992年に米国に移住し、2002年に帰国した。
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