出生と生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 04:12 UTC 版)
「エドモンド・マローン」の記事における「出生と生い立ち」の解説
エドモンド・マローンは1741年10月4日、アイルランド王国の首都ダブリンで父エドモンド・マローン(1704年 - 1774年)、母キャサリン・コリアのもとに生まれる。父はアイルランド議会の下院議員、アイルランドの民訴裁判所の裁判官でもあり、母は第1代キャザーロー伯爵ロバート・ナイトの姪であった。マローンにはヘンリエッタとキャサリンという2人の姉妹がおり、また兄にリチャード・マローン(のちにサンダーリン卿となる)がいた。父エドモンド・マローンは法律家や政治家として成功した人物であり、オックスフォード大学やロンドンのインナー・テンプルで学んだのち、1730年にイングランドで弁護士資格をとった。しかしマローンが生まれる前年の1740年にイングランドでの業務は失敗に終わり、アイルランドに帰国することになった。父エドモンド・マローンは妻とともに母国アイルランド中部のウェストミーズ県シングルスの郊外にある家族の屋敷に居を定めた。その地で弁護士としての仕事を始め、イングランドでの仕事以上の成功を収めることになる。 マローンの教育に関する次なる記録は10年後の1757年、彼がまだ16歳になっておらず、トリニティ・カレッジ・ダブリンに入学した後である。トリニティ・カレッジでは兄が2年前に学んでおり、また前年に父が名誉学位を受け取っていた。マローンは「模範的な生徒で、生まれつきの勤勉さでもって、一貫して学級のトップにいた」。マローンは学業において優秀な成績を収め、彼の著述に対してカレッジの紋章をスタンプした本を賞としてもらった。4年間の学年度における最初の試験で、最上位の誉れをのちにカレッジの研究員ジェームズ・ドラウト、ジョン・カーニーと分け合った。 マローンの学習は1759年の夏、彼と父エドモンド・マローンが母キャサリンに同行してイングランドのハイゲートに行ったことによって中断された。キャサリンの健康状態はある時から悪化しており、当時は歩行も困難になりつつあった。母はハイゲートでの短い滞在ののち、その地の水が健康を与えてくれるものであると考えられていたサマセットのバースにあるローマン・バスに移る。マローンと父は10月にアイルランドへ戻ったが、冬学期を再開させるにはあまりにも遅すぎため、新学期までシングルスに留まり自分で勉強することを選んだ。マローンは父をひとりぼっちにすることを望まなかったためほとんどトリニティ・カレッジに戻るのをやめようとしたが、最終的には1760年1月に学業を再開させた。母キャサリンのバースでの滞在費用は家計に負担を与えたものの、マローンは6月2日の特別な試験ののちにトリニティ・カレッジで奨学金を勝ち取って学寮の奨学生になり、この奨学金は滞在による金銭的な負担をいくらか軽減するものであった。 マローンのトリニティ・カレッジでの最後の試験は1761年、ミカエル祭の期間に行われ、彼は1762年2月23日の卒業に引き続いて文学士の学位を授与された。たった3人のうちの1人として、彼は最高評価を達成している(valde bene)。マローンの父、叔父、祖父はみな法廷弁護士だったため、マローンにとって法律を学ぶという決断は自明の選択だった。1761年に3ポンド6シリング8ペンスを支払ってロンドンでインナー・テンプルへの入場許可をもらったものの、1763年の年初めまで法律の勉強を始めなかった。その中断期間はダブリンで読書をするために費やされ、その後すぐにトリニティ・カレッジ図書館のリーダーに志願している。マーティンは、マローンが読書に費やした期間に「文学についても学んでいただろうとはいえ、恐らく法律に関する勉強をしただろう」と推測した。
※この「出生と生い立ち」の解説は、「エドモンド・マローン」の解説の一部です。
「出生と生い立ち」を含む「エドモンド・マローン」の記事については、「エドモンド・マローン」の概要を参照ください。
- 出生と生い立ちのページへのリンク