出生と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:30 UTC 版)
ヘロディアヌスが何年に生まれて死んだのかは彼自身の著作にも示されておらず、不明である。多くの文献で示されている生年月日は彼の著作が同時代史であると主張されている事を踏まえて、その記述から推測したものである。歴史家たちはヘロディアヌスの記述における各時代ごとの説明量から、少なくとも180年には10歳以上であったと考え、240年に文献の執筆を終えた(つまり最低でも70歳以上まで生きた事になる)と判断している。彼自身が文献の中で「私の目的は70年の間に見聞きした皇帝達の治世について書き残すことである」と述べている事は、70年間以上の生涯と同時代史の執筆という推測をより信頼性のあるものとしている。 しかし、上記で示された仮説が間違っている可能性も決して否定はできない。例えばヘロディアヌスの晩年に即位し、彼の死後も帝位に就いていたゴルディアヌス3世を自著で辛辣に記述している。他の皇帝の様に死んだ後に書かれた評伝とは違い、存命の皇帝を批判するような行為は極めて危険であった。もし仮に他の皇帝と同じく死後に批判を行ったのなら、ゴルディアヌス3世が暗殺された244年以降まで歴史書を書いていた事になる。また『ローマ人の歴史』の3冊目ではコンモドゥス帝が開催した192年の競技会と、セプティミウス・セウェルスによる204年の競技会について記述されている。ヘロディアヌスがコンモドゥス帝の競技会を観戦したのならば、慣習から言って14歳であった事になり、178年生まれという説が成り立つ。
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