出生と少年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 08:11 UTC 版)
康熙21年(天和2年)9月25日(1682年10月25日)子の刻、那覇の久米村(現在の那覇市久米)において、蔡氏志多伯家十世・蔡鐸と正室・真呉瑞(マゴゼイ)との間に、次男(正室の子としては長男)として生まれた。童名を蒲戸といった。蔡鐸は久米村の最高実力者である総役と呼ばれる地位にあり、蔡温より2歳上の兄として側室・眞多満の子である蔡淵(童名は次良)がいた。 康熙32年(1693年)2月15日、12歳で若秀才、康熙35年(1696年)8月22日、15歳で秀才となった。自伝によれば蔡温の少年時代は反抗的で怠け者であったとされる。蔡鐸は蔡温を後嗣とするつもりであったが、側室を迎える際に長男を産めば後嗣とする約束があったことから真呉瑞が納得せず。夫婦の見解の相違が少年期の蔡温に影響したものと考えられている。しかしながら17歳になると学問に目覚め、20歳頃までに論語をはじめとする多くの書物を読み込んだ。康熙39年(1700年)12月1日、19歳で通事(通訳)に任命され、21歳で訓詁師(漢文読書の教師)、25歳で講解師(講談の教師)となった。
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