『ローマ人の歴史』
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「ヘロディアヌス」の記事における「『ローマ人の歴史』」の解説
ヘロディアヌスが書き残した同時代史『ローマ人の歴史』は全8巻からなり、マルクス・アウレリウス帝の晩年からゴルディアヌス3世帝の暗殺までを記述している。 ヘロディアヌスの文献は後世の歴史学者から賛否を分ける資料となった。最初にヘロディアヌスの『ローマ人の歴史』へ言及したのは東ローマ帝国の神学者フォティオスで、彼は9世紀の人物であった。フォティオスはヘロディアヌスを「彼は自らが見たものを率直に書き残した。そこに誇張や見過ごしは何もなく、このような文献を残せるものはそういないだろう」と賞賛している。また同じく東ローマの歴史家ゾシウスはヘロディアヌスを重要な資料として使用している。1705年に『ローマ人の歴史』を初めて英訳した学者も前文にヘロディアヌスの客観性を賞賛する文章を載せ、古文書学者フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフは「宗教や偏見がまったくない歴史書」とまで論じている。 しかしヘロディアヌスの文献に疑わしい部分があるのではないかという批判も同等に存在した。例えばアウグスト・ヴォルフはヘロディアヌスの記述は、そもそも重要性に欠けた内容が多いと指摘している。『ローマ皇帝群像』はヘロディアヌスを文献の一つにしているが、しばしば批判も行っている。またゾシウスも第一の文献としてヘロディアヌスを選んだわけではなく、より優先度の高い文献は別に選んでいる。同様にゾシウスと同じ東ローマの歴史家ヨハネス・ゾナラスもカッシウス・ディオの『ローマ史』による結論から離れるためにヘロディアヌスを用いたに留まっている。 第2巻でヘロディアヌスは彼の意見が「重要で決定的な事についてのみ書き残した」と主張されている。従って大きな出来事や複数の事件が、極めて短い文章で要約される場合も多い。例えば213年と214年に行われたカラカラ帝の遠征については、僅かに二つの引喩という形に省略されている。2年間にわたるマクシミヌスの戦いについても簡単な記述へ要約されている。また何度も言及されているように地理的な知識について誤りが多い。例えばイッススの戦いの説明で、イッススが「ダレイオス3世が捕らえられた場所」という誤った記述を残している。 ヘロディアヌスとカッシウス・ディオの歴史書はともに欠点と長所を持っている。政治的な議論や記述については実際に元老院議員であったディオの専門性が勝ると考えられている。しかしヘロディアヌスはセプティミウス・セウェルス即位時の民衆の反応について、カッシウス・ディオの記述は偏っていると指摘している。より皇帝に近い地位にいた人物による記述だとしても、カッシウス・ディオの記述は必ずしもヘロディアヌスの記述より絶対的に信頼性で勝るわけではない。
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